第八十二話 珍寺大道場を見ると心が癒されます
「はひほはひひはほほへはははははひ!」
早朝、いきなり意味不明なけたたましいは行の羅列に、俺は安眠を破られ、ベッドからずり落ちそうになった。
「な、何だよいったい!?」
しぶしぶ重い瞼を押し開けながらも声の方向を見ると、壁際のベッドの上で上体を起こした清水老人が、ベッドサイドのナイトテーブルを指差しながら、ふがふがと涎を飛ばしてわめいていた。
「何、わしの仏様がない、だって? ファック! シット! ディック!」
俺と同じく強制的に起こされたと思しき、同室者の篠原というコロコロ太った男が、なんと見事に翻訳する。
清水はこくこくと首肯し、誤訳ではないことを追認した。
「仏様って、なんのことです?」
気になった俺はつい、フォーレターワードをマシンガンのようにぶっ放し続けるデブに、尋ねてしまった。
「清水さんは、県内でも有名な江戸時代からある浄土真宗の古刹の元住職でしてね。
とても優しい方でして、実は私は家がご近所だったので、小さい頃から可愛がられていたんですけれど、認知症を発症してから暴れん坊になってしまい、ここに入院になったんですよ。
で、彼は入院後も、自分の守り本尊の阿弥陀如来の仏像を大事にしていましてね、このテーブルの上に置いて、朝な夕な拝んでいたんですよ。
それが無くなってしまったんですな、アスホール!」
「そういわれると、確かに昨日の夜は、そこに何やら黒っぽい物体があったような……」
俺はようやく事態を把握した。寝る前に、清水老人が両手を上げ下げして、何やら奇妙な動きをテーブル上の物体に向かってしていたのを覚えていたのだ。
なんか宗派が違うような拝み方だったが……ま、いいか。
「どうせ自分でどこかにしまっちゃったのを、忘れているだけじゃないんですか。
この前も、『自分のカップラーメンが盗まれた!』とか騒いで警察まで呼んじゃったけど、結局自分で食べてただけだったじゃないですか、ウールニング!」
「そんなことで警察来てくれたのかよ!」
「まあ、警察もこの病院にはさんざんお世話になっているので、お義理でやってくれただけでしょうけどね。
それに、その無くなったって勘違いしたのが、『ザ・麺』っていう、昔発売されたんですが、名前のせいかすぐ発売中止に追い込まれた珍しい伝説のカップ麺だったんですよ、ザーメン!」
「落ち言っちゃったよこの人!」
というわけで、俺と篠原の二人は清水老人を問い質すも、彼はひたすら、「しまったりしていない」と繰り返すのみなので、成り行き上、彼のベッド周りの探索を手伝ってやるも、仏像は欠片も見つからず、朝食前のいい運動になっただけだった。
「やれやれ、こうなったらお寝坊さんも起こして、協力を要請しますか、この腐れマ○コめ!」
「そうだな、いつまで寝てるんだよこの腐れチ○コが!……って、おっと俺まで口調が移ってきたじゃないか!」
こうして俺たちは、この騒動にもかかわらず、未だに爆睡している親族殺人鬼こと奥村を叩き起こして、結局部屋中を隅から隅まで捜す羽目になったのだが、結果は変わらなかった。
「もう朝飯の時間だし、いい加減あきらめて行こうぜ、皆」という奥村の言葉で、俺たちは仕方なく、一旦捜索を打ち切って、デイルームへと重たい足を運んだ。
「そうだったの、それは大変だったわね」
「おかげで室内の雰囲気がギスギスしてたまりませんよ。俺はそんな仏像なんかにまったく興味がないっていうのに、新参者だから何となく疑いをかけられてしまっているし……」
喫煙室内で、俺は思羽香師匠に対してぶちぶちと愚痴を垂れた。
師匠は相変わらず黒尽くめにピンクのショールスタイルで、誰かから巻き上げた煙草を咥えている。
あのショールって確かデブの母乳まみれになっていたけど、本当に洗ってもらったんだろうか?
「で、その仏像ってのは古惚けているけれど、そのためか結構な値がするものなんで、本人もあきらめきれず、ずっとわめいているんですよ。どうしたものやら……」
「前の晩までは確かにあったんでしょ? それから朝まで、誰か部屋に出入りしたんじゃないの?」
「最初は皆、それも疑っていましたが、看護師に聞いたところ、一時間に一回の見回りでも、ずっと部屋の扉は閉まっており、この部屋の出入り口付近にある廊下の監視カメラにも、誰も映ってなかったってことです。
部屋の窓ははめ殺しになってますし、いわゆる密室事件ってやつですか?」
「それって密室事件っていうより、不可能犯罪っていうけどね。ところで、その仏像は、坐像だったの? それとも立像だった?」
「え? さ、さぁ、そこまでは知らないけれど……」
俺は彼女の質問に戸惑った。そんなことが重要とはとても思えないが……。
「多分私の予想だと立像ね。浄土真宗の本尊は阿弥陀如来立像と定められているから、元住職の持仏なら恐らく教えに従っているでしょう」
「はぁ……」
「実は私、仏像にも詳しいのよ。実家のトイレに烏枢沙摩明王が祀ってあったし。
ちなみにその明王は、帝釈天が、う○この臭いに弱いブッダをう○こで出来た城に閉じ込めた時、う○こを皆食べて助け出してくれた、スカトロジーの権化みたいな明王よ」
「なんでそんな小学生が考えたようなハーブ極まりないお話なんだよ仏教説話!?」
「ハハハ、とりあえずさっきの点を確認していらっしゃい。そうすれば真実に近付けると思うわ。じゃねー」
そう言い残すと、頭の中がう○こ一色になった俺を置き去りにし、彼女は喫煙室を出て行った。