第八十話 もう八十話ですか……
「ハハハ、それは災難だったな。あの暴走トラック女にはねられたら、今頃異世界に逝っちゃってたかもしれないぞ。
もっともここには、異世界帰りを自称するやからが何人か入院しているがな」
午後一時過ぎ、県立天神病院南1病棟に附属した診察室内で、俺の対面に腰かけた高峰先生は、椅子が倒れんばかりにのけぞって大口開けて大笑いした。美人が台無しである。
「意味わかりませんよ! 『異世界から帰ってきたら閉鎖病棟に入院させられた』ってことですか?」
「そういうことになるな。なんか売れないラノベのタイトルみたいだが」
「でも、あの茜って人は妊娠しているんですか? あんなにたくさん母乳が出るなんて……あっ、僕が告げ口したなんて言わないで下さいよ」
俺は、ついうっかり午前中の出来事を女医に喋ってしまったことを後悔しながらも、気になっていた点について質問した。
あの衝撃のおかげで、今日の昼飯は喉を通らなかったくらいだ。しばらくコーヒーはブラックにしよう。
「ああ、あれなら薬の副作用だ。高山茜の疾患は統合失調症でな、十代から結婚と離婚を何回も繰り返した彼女は気に入った男を恋人だと思ってしまう恋愛妄想が酷いんだよ。
おまけに太ってて薬の効きが悪いから、結構強めのを内服しているんだが……」
「統合失調症?」
俺は何となく聞き返した。そういえば、喫煙室で出会った妄想バリバリの奥村伸一という男も、確か同じ名前の病気だったっけ。
「統合失調症は、幻覚や妄想を主症状とする病気だよ。
誰もいないところで声が聞こえたり、とても普通じゃ考えられないことを真実だと思い込んでしまうのが特徴だ。いわゆる電波系ってのに近いかな。
有名人では、『智恵子抄』の高村智恵子や、お笑い芸人のハウス加賀谷氏なんかがいるな。
神経伝達物質のドーパミンが大脳辺縁系においてドパドパ過剰になっていることが原因ではないかといわれているが、昔は憑き物のたぐいと考えられていた時代が長く、精神分裂病から名前を変更する時、『キツネツキ・ディジーズ』にしようなんて意見が真面目に交わされていたぐらいだ」
「それいい加減すぎますよ!」
「確かにな。ま、昔からこの疾患とオカルトが相性が良かったってことだ。
霊能力者のいう幽霊のたぐいも、その殆どは病気による幻視で説明できるし、巫女のお告げの声とやらも、幻聴によるものが正直なところだろう。
また、芸術家とも関係が深く、自分の幻覚や妄想を芸術作品にまで高める作家が世の中には数多く存在する。
ルイス・ウェインっていうイギリスの画家は猫の絵が得意だったが、発症後、抽象的かつ色彩過多で、幾何学模様的な化け物猫ばかり描くようになったんだ。
日本では水玉アートを得意とする草間彌生氏なんかが有名だな。『へ◯げもの』でもパクってたぞ」
彼女は時間を持て余していたのか、俺に滔々と病気の講義をしてくれた。
「で、それって治るんですか?」
「うむ、ドーパミンを抑える抗ドーパミン薬で治療するわけだが、薬の副作用で、体が動かしにくくなるパーキンソン病になったり、喉が異常に乾いて水中毒になったり、プロラクチンという乳汁を出させるホルモンが増えることがあるんだ。
昔、『女刑事ペルソナ』っていう漫画があってな、お前さんと同じく解離性障害を発症した女主人公が母乳ばっかり出してたが、原作者によるとあれも薬の副作用っていう裏設定らしい」
「なるほど、それであんなに水をガバガバ飲んだり、おっぱいを滝みたいに景気よくドバドバ噴出するわけですか……」
「簡単に言うとそういうわけだ。一応副作用止めの抗パーキンソン病薬も内服させているんだが、中々効かなくて困っているんだよ。
この薬はドーパミンを増やすので、飲みすぎると逆に幻聴や幻視といった幻覚症状がおこり、興奮状態に陥ってしまうこともあるんで増やしにくいのが欠点だ。
えっちな忍法小説で有名な山田風太郎先生がパーキンソン病になった時、内服後に幻覚を見て暴れて、足を骨折したこともある。
ちなみに忍法帖に、二回中出しすると相手の女性がショック死する忍法穴開きというのがあるが、これはアナフィラキシーショックが元ネタでな……」
「はぁ……」
興が乗ったのか、彼女はどんどん脱線して、マニアックなことを話し出す。
仕方がないので、俺は診察室の壁のエイトエッジ・アサシンじゃなかった染みを数えつつ、診察が軌道に戻るのを待った。
「しかし、私は正直お前さんが隔離室でけだものの様に吠え続けたり、ズボンとかパンツとか全部脱いで全裸になったり、その脱いだ衣類を便器に押し込んだり、室内で豪快に排便したり、その排泄物を手にとって小手職人のように壁になすりつけ、アヴァンギャルドな創作活動を展開したりしてないか、心配してたんだぞ」
「んなことしませんよ! マジで意味わかりません!」
突然の侮辱的発言に、俺は少しばかり腹を立てた。
「ハハハ、気を悪くしたのならすまんな。だが、今並べた行動は、どれも入院したての不穏患者としてはよくある部類のオーソドックスなものばかりなんだ。
何しろ君は、夜の浜辺でストリーキングをやらかして入院になったんだからな」
「あ、あれは……本当にどうして全裸だったのかもわからなくて……」
俺はたちまちしどろもどろになった。今思うととんでもないことをしでかしたものだ。
「まあ、反省しているようだし、服薬にも応じているし、また隔離時間を少しずつ減らしてやるよ。じゃあ、またな」
さっきの屈強な山田とかいう看護師が診察室に入ってきて、俺を手招きする。もう隔離時間になったのだ。
「あの、俺は無事、隔離が解けて、退院できるんでしょうか……?」
つい、一番気になっている質問を、去り際に、主治医に投げかけてしまう。
「落ち着いて過ごしていればな。昔と違って余計な苦痛は与えず、出来るだけ開放的な環境で治療を行うというのが現在の医学の主流だ。そう不安がるな。
しかし早いとこ身元がわかって保護者が見つかればいいんだが……」
美人女医は気になる一言を残して診察室のドアを閉めた。




