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第七十八話 命名勝負

 その時向こうから、一人の患者が近付いて来た。


 三十歳前後の、やや猫背のボサボサ頭の垂れ目の男で、よれよれのズボンとTシャツに身を包み、左手にA4サイズの紙を持ち、右手の親指と人差し指の間に煙草を一本挟んでいる。


 思羽香師匠は煙草を咥えながら何やら物思いにふけっており、接近する彼にちっとも気付いていないようだ。


「思羽香ちゃーん、また来たよ!」


 彼は俺には目もくれず、喫煙室のガラス戸を開けると、わざと大声で思羽香師匠に呼びかけるが、彼女は顔を上げようともせず、「あら~伸一ちゃん、ま~た懲りずに来たの~、いらっしゃ~い」とどこぞの落語家のような口調で歓迎した。


「今日こそギャフンと言わせるようなものを考えてきたぜ……覚悟しな!」


 伸一と呼ばれた男は持参した紙を、床の上に叩きつける。そこには様々な名前が印刷されていた。


「おや、手書きはやめたの、凄いじゃな~い、フフッ」


 思羽香はちらっと視線を走らせ、小馬鹿にしたように鼻で笑う。


「散々字が読めないだとか、読み間違われたしな。


 昨日作業療法室で、わざわざパソコン借りて、打ちこんできたよ。さすがにこれで読めるだろう?」


「でも問題は中身なのよ、どれどれ」


 ようやく彼女は顔を上げると、紙に目を落とす。伸一はごくりと唾を呑む。一体これは何なんだ? 


「相変わらず駄目駄目ね、出直してらっしゃい」


 ものの3秒程度見詰めただけで、彼女は呆れたような声で駄目出しをすると、フーッと紫煙を彼の顔面に吹きかけた。


「ど、どうしてだよ! 今回はちゃんと字画も調べてきたぞ!」


「字画が良ければいいってもんじゃないのよ、お馬鹿さ~ん、もっと勉強してらっしゃい」


「こ、これなんかどうだ? 女の子らしい、可愛い名前じゃないか!」


 伸一は紙の右端の、「小雪」という名前を指す。


「雪とか氷とかは、儚く溶けてしまうイメージがあるから、あまり名前には向いてないのよ」


「じゃ、じゃあこれは? 結構人気のある名前だぞ」


 今度はその隣の、「桃子」に指先を移す。そこで、どうやら娘か誰かの姓名判断というやつだと、ようやく俺は理解した。


「アハハっ、果物は、落下してしまうものなのよ。落ちないリンゴじゃあるまいし、ちょっとアウトね」


「うぐっ」


 おそらく自信があったのだろう二つを速攻で否定され、伸一はノックアウト寸前の様子だった。


 だが、彼はふらつく両足に力を込めると、パンチドランカーの如く前へと踏み出した。


「では、今年度から人名用漢字に採用されたこの……」


「あ~、その時点でやばいわね。そんな新しい漢字を使ったら、将来年齢が特定されやすくなっちゃうわよ。あなた、自分の娘のことを考えていないの?」


「そ、そうか、そんな盲点が……!」


 哀れな伸一は最早真っ白な灰と化し、立ち直ることが出来なかった。


 そんな彼にかまわず、彼女は右の手のひらを上に向けると、初めてにっこりほほ笑んだ。


「では、見料1本頂きま~す」


「く、くそ! 持ってけ泥棒!」


 彼は手に持った煙草を彼女の右手に放り投げ、涙を隠しながらすぐさまその場を後にした。


「す、すげえ……姓名判断出来るんですか?」


 後に続いた俺は、彼女にそっと尋ねた。


「ま~ね、私の母親が占いに詳しくって、いろいろと教えて貰ったの。おかげで水商売では結構役に立ったわ。ここでもこうやって退屈しのぎが出来るし」


 思羽香師匠はゲットした煙草をジーンズのポケットに突っ込むと、低い声でこう付け加えた。


「でもさっきの男には気をつけなさい。あいつ……奥村伸一は人殺しだよ」



 奥村伸一は美大志望の浪人生だったが、度重なる受験失敗で自信喪失し、母親に伴われ天神病院を受診した。


 彼はうつ病と診断され、通院治療を開始し、抗うつ薬を処方された。


 彼は真面目に通院し、服薬も順調で、やや前向きになってきたようだった。


 だが、悲劇は唐突に訪れた。


 通院開始から3ヶ月後のとある日、彼が急にわけのわからないことを喚きながら、家で弟を椅子で殴り殺すという事件が発生したのだ。


 伸一は精神鑑定の結果、統合失調症と診断し直され、幻覚妄想状態で、心神喪失状態のため不起訴処分となり、司法から医療へと委ねられた。


 その後、自傷他害の恐れあり、措置症状ありと診断され、天神病院に入院となった。


 現在は措置入院から医療保護入院に変更となり、閉鎖病棟の南1病棟で妄想の中で過ごしており、彼の父親が保護者となっているが、父親には彼を退院させるつもりは毛頭なく、月に一回母親か、病気の祖母が面会に来るだけである。


「まさか、娘が産まれるだのなんだのが、全部あいつの妄想だったなんて……」


 俺は、病棟の廊下をふらふら彷徨いながら、先程の彼女の説明に、少なからずショックを受けていた。


「しかし、師匠はよくそこまで知ってるよな」


 彼女にはつくづく感心してしまう。


 なんでも看護師たちの会話や古新聞や他の患者から色々と情報を集めていったそうだ。


 もはや牢名主と呼ぶに相応しい。


 くれぐれも彼女には逆らわないようにしよう、と俺が心に誓いながら廊下の角を曲がった時、とんでもないものが目に入った。


 相撲取りのようにぶくぶくに太ったブス女が、パンツ一丁のあられもない姿で、洗面台の蛇口を全開放にして、吸い付かんばかりにがぼがぼ水を飲んでいた。


 二十は明らかに越している顔だが、体形のためか三十にも四十にも見える。ていうか人間にまず見えん。


 だらしなく垂れ下がっている餅のような巨大な乳房には、縮れ毛の生えたDVDサイズの焦げ茶色の乳輪がへばりつき、俺は軽く吐き気を催した。


 俺はこっそり回れ右しようと思ったが、運悪く彼女というかモンスターと目が合ってしまった。


 途端に、「おとこおおおおおおおお!」と化け物は奇声を発すると、ウイグル獄長の蒙古覇極道の体勢で、俺に吶喊してきた。

というわけで、しばらく過去編が続きますが、誠にすいませんが、またもや一週間お休みさせて下さい。

次回は12月10日更新再開予定です!

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