第七十七話 ハーブか何か
「ところで師匠はどうして入院になったの?」
翌朝、検温が終わった後朝食を食べている最中に、俺は昨日からずっと気になっていたことをお隣さんに聞いてみた。
彼女の話口はとても明るくかつ丁寧で、こんな場所に監禁されるような人間とはどうしても思えなかったのだ。
「それを話すとちょっと長くなるんだけどね、聞いてくれる? もぐもぐ」
何らかの咀嚼音とともに、彼女の返事が返って来た。
妙に心を安らげてくれる響きがある。ナスの味噌汁に手を付けていた俺は、即座に、「いいよ。もごもご」と答えた。
「実は私の実家って創業四百年程のX市でも指折りの老舗料亭でね。
一人娘の私は小さい頃から厳格に躾けられて、お琴やら茶道やら生け花やらなんやらありとあらゆるお稽古事をさせられてたわけよ」
「そ、それは大変だね。はむはむ」
熱々のがんもどきに噛みつきながら、俺は適当に相槌を打った。
それにしてもここの飯は警察よりはうまいな。
「私も両親の期待に応えようと、一心不乱に全てを頑張ったの。
今思うと真面目っ子だったのかもね。これからの女将は学歴も必要なんて言われて、幼稚園の頃から県内でもトップクラスの進学校に入り、苛烈極まる内部進学の試験を勝ち進んで小学校、中学校と順調に駒を進めた。
また、家では親を手伝って、仲居さんの真似事までしていたわ。
でも、勉強やお稽古ごと、家の手伝いのストレスで疲れ、つい軽い気持ちで危険ドラッグに手を出してしまった……」
「えっ、そ、そうだったんだ……」
内容が急激に重くなってきたため、さすがに俺も箸を動かす手を止め、神妙に話に聞き入った。
「ある日料亭の裏でこっそりハーブを吸った後で、お客さんにスズキのあらいを運んだら、『このあらいを作ったのは誰だあっ!!』ってお客さんが炊事場に乗り込んできて……」
「ちょっと待った! その展開昨日読んだ漫画に描いてあったぞ!
確かハーブじゃなくてタバコだったけど!」
どうしても途中で我慢できなくなった俺は、壁を突き破らんばかりの勢いで突っ込んだ。
「あら、ばれちゃった? キャハハハ」
「記憶喪失だからって舐めんな! ったく、真面目に聞いて損したわ!」
からかわれたとわかった俺はふてくされて、朝食をかきこむ作業に戻った。
「ごめんごめん、でもね、クスリやってたのは本当だよ。結局中学はなんとか卒業できたけど、高校はどこへも行かず、家にもろくに寄り付かず、水商売のお店で年齢偽って働いたりしていた。
すぐばれて連れ戻されたけどね。でもその後もいろんなお店を転々とした。そのうち眠れなくなったりなんだりで、ここの病院に通うようになったの。
もう絵にかいたような転落人生で、自分でもなんか生きるのが嫌になって、睡眠薬だのなんだのいろんなものをお酒と一緒にオーバードーズして、救急車で病院運ばれ胃の中きれいに洗ってもらって、自殺未遂ってことでここに送られたってわけ。
早く退院したい一心で、この前脱走を企てたけど、結局捕まって連れ戻されちゃったけどね」
「……」
しばしの間、俺は呆然と茶碗の白米を眺めるばかりだった。
朗らかにふるまう彼女の裏側に、重たい闇が広がっていることに気付き、かける言葉を失っていた。
「あんまり気にしなくてもいいよ。そこまで深い覚悟でやったわけじゃないし、これくらいよくあることだし、軽く流して頂戴ね。
そもそもこの病院に入院している人の中では、私の話なんかミニマム級レベルだよ」
何故か辛い過去をぶっちゃけた彼女の方が、俺を心配してフォローしてくれた。俺は黙って味噌汁をすすった。
こうして、俺の楽しい隔離室ライフは、日一日と過ぎていった。
とにかく模範囚(囚人じゃないけど)を心がけ、ここの仕来りにも徐々に慣れていった。
消灯が九時と早すぎるのには参ったが、夜は師匠の様々な教えを受け、今後について考えを巡らし退屈を紛らわせた。
数日後には、朝九時から昼の二時まで鉄扉を開けてもらえることとなり、俺はようやく隔離室の外へ足を踏み出した。
部屋の前の廊下を通ると、すぐにデイルームと呼ばれるホールに出た。
ナースセンターに面しており、食堂も兼ねているその広い空間は、10数個の四人掛けのテーブルが整然と並び、数人の患者がテーブルの前の椅子に腰かけ、居眠りをしたり、雑談をしたり、テレビに見入ったりしている。
穏やかだが生気のない、ぬるま湯の様な患者たちの時間が流れている傍らで、それとは対照的に、何人かの看護師たちが、患者にお茶を勧めたり、走り回ったりして、忙しげに働いているのが印象的だった。
「あら、ようやく釈放されたの。私は朝六時から隔離解除だったので、待ちくたびれたわよ、おめでとう」
ぼんやりと辺りを眺めていた俺は、聞きなれた声のする方向に頭を巡らせた。
デイルームの一画に、「喫煙室」と書かれたガラス戸で仕切られた小部屋があり、そこに一人の女性がいた。
未亡人の如き黒いヴェールを頭に載せ、ピンク色に照り輝くラメニットショールを肩に掛け、やや露出の多い黒のタンクトップとジーンズを着て、まるでヤンキーのごとく直に床に座って一服している。
年のころは二十代半ばだろうか。セミロングの髪は煙の中でも艶やかさを失わず、白い肌を際立たせていた。
鼻筋の通った顔立ちは奇抜な格好に似合わず意外にも知的で、やけに長い睫毛がどこか妖艶な雰囲気を付加している。
間違いない、あの晩浜辺で見た彼女だ。
「し、師匠?」
「こら、ここでは思羽香さんと呼びなさい」
俺を喫煙室に招き入れた彼女は謎めいたアルカイックスマイルを浮かべると、紫煙を燻らせた。
多分、俺はその瞬間、恋に落ちた。