第七十六話 地の底の再会
「なんか警察とほとんど環境が変わらないな……」
四つの壁のうち、一面には牢のように鉄格子がはまり、残り三面は白いコンクリートの壁で囲まれた、三畳にも満たない狭い殺風景な室内で、唯一の家具である敷布団に寝転がったまま、俺はぼんやり天井を眺めていた。
暗い裸電球の側に、監視カメラが光を鈍く反射している。
室内奥のトイレまではカバーしていないようだが、トイレにこもっても引き戻されるだけだ。
ここで何も考えず横になっている方がよっぽどいい。
さっき古い漫画本を一冊だけ病院の職員より貸し出ししてもらえたが、とっくに読み終えてしまった。
措置鑑定の診察とやらが終わった直後、俺はパトカーで再び護送され、砂丘の上に立つ、県立天神病院とやらに入院となり、診察室で改めて主治医となった高峰女医より説明を受けた。
何でも俺は解離性障害という精神病で、一時的に記憶を失っている可能性が高く、衝動的に他害行為を行う可能性があるため、この病院にしばらく措置入院になるという。
この入院形態は、県から入院費が全て出るため、俺は金の心配は一切しなくてもいいが、しばらく隔離室という、鍵のかかった部屋に入ってもらわなければならないとのことだった。
俺はわけのわからぬまま、素直に全てを受け入れた。
てか、行き場のない俺には、他にどうすることも出来なかった。
隔離室は初めのうちこそ物珍しかったが、何もすることが無く、暇で暇で仕方がない。
鉄格子の対面の壁には厚い鉄扉があるが、入浴時ぐらいにしか使用されず、鉄格子の奥は、格子と並行した細い通路になっており、その壁に小さい窓が嵌っていたが、青い空と名も知らぬ木の葉が見えるのみで、別段面白いものではなかった。
食事や服薬、検温、見廻りの時間には、この通路を通って看護師や医師が訪れるが、用が済むとすぐに引き返すため、孤独なことこの上なかった。
よくわからん薬を手渡され内服すると、不安が薄れ、気だるさと安寧が訪れることはあったが、記憶が戻る兆候は欠片も無かった。
「しかしいつまでここにいなきゃいけないんだ?」
入院当日の夜、天井のエイトエッジ・アサシンじゃなかった染みを数えるのにも飽きて来た俺が、そう呟いた時である。
「お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様アアアアアアアアアっ!」
いきなりドンドンドンと拳で壁を叩く音と共に、隣の部屋から女性の甲高い声が響いて来たので、俺は心筋梗塞でも起こすかと思った。
「な、何だ何だ何だ!? 討ち入りかカチコミか逆夜這いか? お、お兄様だって!?」
俺が思わず謎の声に対して答えると、ハードロックのドラムの如き乱打は始まったときと同じく突然止み、代わりにくすくす笑いが聞こえて来た。
「あらあら、お兄様は最初に一回叫ぶだけで、後は何も答えないもんなのよ。『ドグラ・マグラ』読んでないの?」
「読んでねーよ、そんな前立腺マッサージ器具みたいな名前の小説! ってその声は……」
女性の声に聞き覚えがあるのに気付き、俺は戸惑った。あれは、確か夜の砂浜で……。
「あっ、覚えていてくれたの? あの時本当は私を助けてくれようとしたんですってね、ありがとうアンドごめんなさい!」
「やっぱりあんたか!」
俺は、女性との偶然の再会に驚きつつも、そういや診察時に、医者が、彼女はこの病院の脱走兵だと言っていたことを思い出した。
なるほど、それならば俺と同じく隔離されているのも合点承知の助である。
「いや、確かに股間を蹴るのはどうかと思ったけど、あの時は俺も全裸でのこのこ現れちゃったし、悪かったよ。こちらこそごめん」
苦笑しつつも、俺も素直に彼女に謝った。あれは不幸な事故でした。
「大丈夫? 使い物にならなくなってない? ちょっとおそ松くんだったけど」
「そこまで心配しなくていいよ! お陰さまで愚息はキャノン砲並に元気だよ! ところでなんで俺が隣室だって知ってたの?」
俺は、つい下ネタで返しつつ、先程から疑問に思っていたことを尋ねた。
「看護師たちが昨日噂してたのよ。明日ここに、浜辺で全裸で暴れていた記憶喪失の男が来るって」
「個人情報ダダ漏れだな! てか俺ってそんな危険人物扱いなの!?」
「この病院に入院になる時点でそうとうなもんよ。ここは、県内でも問題のある患者ばかりが集まってくる男塾レベルの、地の底のような精神病院だから。ヤク中でも殺人鬼でもヤクザでもなんでもござれよ」
「そ、そうだったんだ……」
名も知らぬお隣さんは、ご丁寧に、俺に病院についていろいろ講義してくれた。
曰く、この建物こそが、県内の重症精神病患者を一手に引き受ける精神科スーパー救急病院、県立天神病院であること。
150床の精神病棟、同数の療養病棟、そして100床の一般病床を有し、つまりは総計400床もの大病院であること。
建物は三棟あり、「シベリア街道」の異名を持つ、長い長い渡り廊下で繋がっており、一つの棟はそれぞれ三つの病棟を持ち、つまり病院全体が計九つの病棟に区分されているとのこと。
ちなみに今いるここは、南病棟一階の鍵のかかった閉鎖病棟、通称南1病棟であること等々……。
俺には難しい話も多かったが、独り寝の寂しい夜長の暇潰しには丁度よく、俺は先輩患者の彼女をいつしか師と仰ぐようになった。
長い会話の最後に、彼女はこう言い添えた。
「あ、そうだ。私の名前は海野思羽香っていうの。あなたは?」
「……吾輩は人間である。名前はまだ思い出せ無い……んだけど、一応砂浜太郎って呼ばれてます」
「なんか検便シートに書いてありそうな名前ね、キャハっ!」
俺はダメージを受けて精神力がゼロになり、その日はそれ以上話をせず、不貞寝した。