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第七十三話 餓鬼道で会いましょう

「倶会一処」


 海野家の墓石には、そう刻まれていた。他の墓には「南無阿弥陀仏」と彫られているものが圧倒的に多く、それはまだなんとか理解出来るにせよ、この漢字四文字はかつての俺にはさっぱり分からなかった。


「くえいっしょ?」


「ああ、そう読むんだよ、花音。以前、ここに来た時、ママに意味を尋ねたら、『親しい人達とあの世でまた一緒に会えるってことだよ』って教えてくれたんだ。


 それを聞いて妙に安心したのを覚えている。かつて記憶が無くて、身寄りもおらず、寂しそうにしていた俺に、そう言って慰めてくれたっけ」


「あいつは昔から心根の優しい子じゃったからのう、それを、貴様のせいで……それにしても黒いTシャツなんぞ着とるから、熊と間違えて貴様も撃ち殺しそうになったわい。


 いっそのこと引導を渡してやれば良かったかのう」


「まあまあ、お父さんも、こんな場所で喧嘩しないで、ね? 


 何だかんだ言って、太郎さんを救ってあげたじゃないの。


 私の姓名判断通り、やっぱり二人は相性がいいのよ」


 黒いドレスに身を包んだ、六十歳前後の白髪の女性が、わなわなと肩を震わせる李白老人の背中に軽く手をかける。


 妻の母、海野 とうだ。穏やかだがしっかり者の彼女は、夫を嗜めることにかけては天下一品だ。


 その隣では花音が地べたに団子っ鼻が付きそうなほど屈みこみ、大きな山アリに興奮しては可愛い親指でぶちぶちと押し潰している。本当に男の子みたいにわんぱくだ。


 墓の脇に立つ棒に吊るされた二枚の板キリコが、そよ風に吹かれて鳴子のようにカランと鳴る。


 その涼しげな音色が空気に染みわたり、炎天下の猛暑を心なしか和らげてくれる。


 ちなみに板キリコには、それぞれ、「海野李白・桐」、「砂浜太郎・花音」と書き込まれている。


 見る人が見れば、家庭の内情が丸分かりだな、と俺は苦笑した。


 何故なら、墓石に刻まれている名字には、「砂浜」の姓の者など欠片もいないからだ。


 個人情報丸出しのこのシステムは、仕来たりとはいえどうにかならないものだろうか。


「墓参りに来たのに、目の前で熊の餌食にされるのも目覚めが悪いから、仕方なく助けてやっただけじゃ。


 本来は貴様が参拝することなんぞ許されんが、ここまで来てしまったからにはしょうがない、今日だけ勘弁してやるから、用が済んだらさっさと帰れ!」


 俺にお義父さんと呼ばれることを頑なに拒否する岳父は、墓地の雑草を引き千切るようにむしりながら、尻だけ向けて、屁のように怒声をぶっ放した。


「だから、そう怒ってばかりじゃ駄目よ。また血圧が上がりますよ


 お父さんも、若い頃は山の中でメス熊とばったり出会って、死にかけたことがあったじゃないですか。


 その時偶然熊の胸を揉んだら、なんだか身悶えしちゃったのでその隙に逃げ出したっていつもおっしゃっているでしょう?


 その後振り返ったら、熊さんが招き猫みたいに手招きしていたんでしたっけ? 『おいでおいでの熊さん』だなんて言ってたくせに。


 それに冬山で吹雪で遭難した時は、とっちゃいけない特別天然記念物の雷鳥を捕まえて丸焼きにしちゃったって自慢してましたよね。


 脂が乗って絶妙な味わいだったのでまた遭難したいだなんて言っちゃって……」


「ば、バカな事ばかり話すんじゃあない!」


「はいはい、わかりましたよ」


 夫の悪行を暴露しまくる桐婦人は、バケツから柄杓で水を掬い、行水のように墓石の上からざぶんとかけ流す。


 所作の一つ一つが、まるで茶道か日本舞踊のように美しい。


「お墓、シャワー好き?」


 山アリの大量虐殺に飽きた花音が、その行為に興味を示し、食い付いてくる。


「あら花音ちゃん、これはシャワーじゃなくって、亡くなった人のためにお水をあげているのよ。


 死んだあと餓鬼道って世界に落ちた人は、お水がなくていつも喉が渇いているらしいわ」


 へー、そうだったのか。俺も知らなかった。


「ママ、餓鬼道落ちた? 六道輪廻? 天空覇邪魑魅魍魎?」


「ホホホ、欲張りな人が行くところだから、案外そうかもね。あなたのママは、欲しがり屋さんだったから」


「こりゃ、くだらんことばっか言っとらんで、お前も掃除を手伝わんかい!」


 老人の怒鳴り声に対し、彼女は、「はいはい」と軽くいなすように答えると、風に消されないよう、苦心して線香にマッチで火を付けている俺に対し、小声で囁いた。


「太郎さん、御覧の通り、主人の機嫌が悪くて御免なさいね。


 いつもあなたたちと仲良くするよう言っているんだけど、全く聞く耳持たなくって……あの子の葬式にも参列させてあげられず、本当に申し訳なかったわ」


「いえ、気にしてないから構いませんよ」


 俺もそっと返事をすると、なんとか着火した線香を墓前に供え、眼を閉じて、合掌した。


 蝉の唸りだけが途切れることなく墓地を覆っていた。


 黙祷する俺の脳裏に、明るかった妻の笑顔が浮かび上がる。


 彼女は今頃何処かの世界に生まれ変わっているのだろうか。


 時々、別の世界に行ってみたいと呟いていたっけ。


 花音が産まれてからはそんなことは言わなくなったが。


 エロンゲーションやOBSが存在するんだから、ひょっとしたら輪廻転生も有り得るかもしれないな。


 だからといって餓鬼道は勘弁願いたいけど。


「パパ、何考えてる?」


 欠片も手を合わせようとしない娘が、俺の瞑想を邪魔してくる。


「ママとの思い出についてだよ、花音」


 実際その時俺は、彼女との衝撃の出会いのことを思い出していた。あれは、そう……。



 忘れもしない、夜の砂浜だった。

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