第七十一話 田舎の墓参りって結構命がけだよね
N山墓地は様々な区画に区分されており、妻の墓所は墓地甲という区画の六号筋と七号筋の間にあった。
何回来ても迷いそうになるのだが、道路脇をちらちらと確認し、六号筋の立て札を発見すると、そこから左手に折れ、細い石段を登って行く。
足元に玉石の様に無数に転がる松ぼっくりの群れに躓きそうになったり、巨大な蜘蛛の巣に行く手を阻まれながらも、一歩一歩慎重に進んでいく。
「しかし、本当に暑いな……」
額から噴き出した汗が頬を伝い、顎先へと滝のように流れ落ちていくが、拭いたくても両手が塞がっており、どうすることも出来ない。
だが、不思議と気にならず、苛立ちも生じなかった。
ここの澄み切った清浄な雰囲気が、司令の死以来続いていた抑うつ気分を癒し、心を落ち着かせてくれた。
街中から一歩外れただけだというのに、まるで水墨画の深山幽谷の境地に彷徨いこんだような不思議な気分になるとは、さすが藩祖が選んだ聖域なだけはある。
そうやって十分間程も歩いただろうか、ようやく記憶にある赤茶けた松の幹が視界に入った。妻の墓の手前に立つ目印の木だ。
ここまで来るといつもホッとし、汗も引っ込むように感じる。
昨日の雨でやや滑りやすくなった松葉の山を踏みしめ、俺と花音はゴールに向かった。
「ブゴァっ!」
突如進行方向から響いてきた心胆寒からしめる吠え声に、俺は思わずバケツを取り落としそうになった。
慌てて大勢を立て直すと、松の木の隙間から、黒い毛がちらりと眼を掠めた。あれは、まさか……。
「く、熊ぁ!?」
俺が大声を上げるのと同時に、木陰から獰猛極まる獣が、のっそりと姿を現した。
身長1メートル80センチはあろうか、がっしりとした相撲取りのような体格で、全身は黒毛で覆われているが、胸にのみ白い三日月形の毛が生えていた。
言わずと知れた、本州最強の肉食獣、ツキノワグマだ。
「くまモン! ベアッガイ! 熊ん子バイブ!」
「ぎょええええええええ!」
叫びながらも咄嗟に花音に駆け寄った俺は、手に持った全てを投げ捨て、何故か喜んでいる彼女を抱きかかえる。
バケツが石段を転がり落ちていき、周囲に盛大に水をぶちまける。
俺は構わずに転がり落ちるように、今昇って来たばかりの石段を無我夢中で駆け下りた。
「な、なんでこんなところに熊が……!?」
息せききって走りながらも、つい思いを口に出してしまう。
以前この松の辺りで、日本一の猛毒を持つと言われる蛇・ヤマカガシとご対面したことはあったが、さすがに熊は初めてだ。
食料を求めて人里近辺に現れることがあるとはニュースで聞き知っているけれども、墓場に食べ物なんぞあっただろうか?
お墓のお供えの饅頭とかって、漫画ではよくあるけれど、意外と現実世界で見た事ないぞ、俺。
「ブゴオオオオオ!」
「げえっ!?」
わずかに振り向き確認すると、なんと恐ろしいことに、赤カブトもかくやという猛獣が、あたりの墓石をなぎ倒し、咆哮しながら俺たちを追い掛けていた。
ひょっとして、やつらに対して背を向けて逃げるのはいけないことだったっけ?
でもこの一本道でどうしろってんだよ!
絶・天狼抜刀牙でも使えん限り、真っ向から立ち向かったり出来んわ!
畜生、こんなことならOBSに乗って墓参りに来れば良かった!
「パパ! 急げ急げ急げ! 死ぬ死ぬ死ぬ! ダッシュ勝平!」
「こ、これ以上無理だって、花音!」
「じゃあ、巣穴入る! クマ、襲わない!」
「確かに熊は巣穴に自ら入って来た相手は殺さないって、ゴー○デンカムイで言ってたけど、そもそもここには巣穴が無えんだよ!」
「じゃあ、クマのケツ穴入る!」
「意味わかんねえ!」
などど言い合っているうちに、野獣は見る見るうちに間を詰めて迫って来た。
いくらこちらが全速力を出したとしても、野山に住む野生動物にかなうわけがない。
そんなことは分かり切っているのだが、諦めの悪い俺は、何としてでも生き延びようと、死に物狂いで足掻いた。
せめて車道まで逃げ切れれば、助けを……!
臭い息を首筋に感じて、後ろをちら見すると、なんと熊はもうほとんど数歩以内の至近距離まで接近していた。
しかも何故かち○こをギンギンにおっ立てて興奮している。
なんでオス熊が俺に欲情するんだよ!?
ひょっとしてさっき尻についたはちみつシロップのせいなの?
もしくは、今俺が着ている黒い服が何らかの誤解を招いたのかもしれない。
とにかくこのままでは命の危機の前に俺の貞操が危ない!
森の熊さんに俺の毛深い巣穴に侵入されてしまううううううう!
あわや鋭い爪先に背中を抉られるか、もしくは陰茎骨を内部に持つデスペニスにケツメドをファッキンガム宮殿されるかと思ったその時、墓地に銃声が鳴り響き、背後の足音が途絶た。
「えっ?」
思わず振り返ると、どうとばかりに石段に倒れ伏す黒い巨体が見え、その遥か背後に、狩猟用ライフルを構える人影がおぼろげに目に映った。
「まったく、墓の中に蜜蜂が作った巣を、熊が食べに来ることも知らんのか? ちったあ用心せい」
忌々しげにそう呟き、次いで舌打ちをする音が、一瞬遠のいた蝉時雨の合間にくっきりと聞こえた。
オレンジ色のキャップを目深く被り、緑と黒のタータンチェックのいわゆる山シャツを着て、ジーパンを履いた、巌のような初老の男性……俺のよく見知った人であった。
「じいちゃん!」
俺の腕の中の花音が、嬉しそうにその人物に呼び掛ける。
「お……お義父さん、なんだって銃なんか持ってるんです? そもそも七月って狩猟禁止期間じゃないですか?」
俺も、彼女に続いて、妻の父に当たる彼、海野李白にこう問い掛けてしまった。
以前、二度と口を聞くなと言われたにも関わらず。
「これは護身用じゃ。あと、貴様にお義父さんなどと呼ばれる筋合いはないわい!」
彼は、銃口から硝煙の立ち上るライフルを俺に向けたまま、深い皺が刻まれた四角い顔面に更に縦皺を増やしつつ、再び山を埋め尽くした蝉の鳴き声にも負けないくらいの怒鳴り声で吐き捨てるように答えた。
というわけで、書いていて熊肉が食べたくなってきましたが、誠にすいませんが、またもや一週間お休みさせて下さい。
次回は11月26日更新再開予定です!