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第七十話 ボンクラって賭博用語だったのね

 司令の瞼は閉じられ、安らかな眠りについているかに見えた。俺はそっと身体の布をめくってみる。


 遺体は何故か全裸だが、無数の傷口は全て縫われており、綺麗に処理されていた。


 ちなみに乳首は勃っていなかった。あと、ち○こは明らかに包茎手術した形跡があった。


 そして太股の付け根の見えにくい部分には、何故か漢字の「正」の字が四画目までサインペンみたいなもので書かれていた。


「司令、また以前みたいに、『僕と契約して、OBS操縦者になってよ!』って言って下さいよ……」


 再び俺の胸中に言い知れぬ哀惜の念が押し寄せるが、娘の手前もあり、ぐっと涙を押しこらえる。


「臨兵闘者皆陳列在前……」


 布を直すと、俺は遺体の前で九字を切りながら、司令が愛読していた「孔雀王」に出て来た、祈りの言葉を唱えた。


 彼にとっては念仏よりもこっちの方が有難いかもしれないし。


「淋病父ちゃん痒いち○こが猛烈に臭いぜ……」


 隣りの花音も、俺の真似をしながら謎の呪文を詠唱する。


 なんだか陰部に掻痒感が生じてきた気がするが……これってなんの呪いですか?


「それにしても葬式とか火葬とかしないのかな?」


 つい、言わずもがなの疑問を口にしてしまう。このままでは、ちょっとさすがに気の毒だ。


「そもそも司令はこの世界の人間やないから戸籍がないんや。


 だから死亡診断書や死体検案書もおいそれとは作成できんがや。


 身元不明遺体扱いになってしまうし、そんな人間をこっそり雇っていたことがばれたら、うらのクリニックは一巻の終わりや。


 よって遺体は今しばらくここに安置しておく」


 いつの間にか背後に立っていた高峰先生が、俺たちの横に来て、手を合わせた。


 死体検案書と言えば、とある不倫小説のラストがそれで終わっていたが、男女の心中死体が合体したままなかなか離れなかったとかなんとかでエロくて、結構お世話になったのを思い出す、っていかん、このままでは竜胆以下になってしまう!


「しかし、この遺体、ひょっとしたら遺体やないかもしれんのや」


「えっ、何ですって!?」


 合掌中の女医が唐突に意味不明なことをのたまったので、俺は驚いて聞き返した。


「司令の肉体は、現に心臓も呼吸も止まっており、生存活動は行っておらん。


 しかし瞳孔の散瞳は認められず、角膜混濁も死後硬直も死斑も起こっておらず、いわゆる死体現象が何も見られんのや。そんなことは普通有り得んわい。


 おまけにこの暑さにも関わらず、死後二日経っているのに、全然腐る気配がないんや」


「じゃ、じゃあ、司令はひょっとして……」


「仮死状態、っちゅう可能性はあるわな」


 女医は何か思案している風に、厳つい顎に、顔に似合わない華奢な手を当てた。


「もっとも、お前さんも知っている通り、OBSと人体は似て非なるもんやから、今の段階では何とも言えん。


 とにかくこの件は一旦保留や。さ、はよ墓参りに行ってこられ」


 彼女はそう言うと、霊安室と化した部屋から俺たちを閉め出した。


 廊下を立ち去る俺の耳に、「それにしても、うらのカローラ盗んだんは、おまいさんやったんか……」という声がかすかに伝わってきた。


「司令……」


 俺は、僅かな希望の灯が漆黒に塗りつぶされていた心中にほっこり浮かび上がるのを感じたが、過度の期待は禁物と自分を戒め、後ろ髪をひかれる思いでその場を立ち去った。



 午前十一時、俺はX市の外周を走る山側環状道路を、花音と共にポルテでひた走っていた。


 空は快晴で、天気予報によると梅雨は昨日明け、この地にもようやく夏が訪れていた。


 昨日の雨で茶色く濁った川を渡った勢いでトンネルをくぐると、左手に緑なす山肌と、風化した古代遺跡のように立ち並ぶ墓石群が突如出現する。


 X市最大の霊場・N山だ。四百年以上の歴史を誇る一大墓地群で、江戸時代の藩主一族を筆頭にその家臣群、更には郷土出身の有名人の墓が立ち並んでいる。


「三途の河を渡ったらあの世だとは、ちと出来過ぎているな」


 強い陽光に目を眇めながらも、ついくだらないことをつぶやいてしまう。


 だが藩主一族にとってはここは浄土に当たるのだとすれば、街の対岸に墓所を定めたのも、あながち偶然ではないのだろうか。


 ここからはX市の夜景が眺められ、終の住いにするには中々乙な場所とも言えた。


 俺は墓地の入り口付近にあるコンビニに車を停めると、レジの手前に並ぶ、上部を三角形に切って小さな庇状の屋根を付けた、長さ二十センチ、幅四センチ程度の細長い木の板を一つ買った。


 X市名物・板キリコである。


 昔からX市では、キリコという、木枠と紙で出来た四角い灯篭に参拝者の名前を書き記し、蝋燭を灯して墓前に捧げるという風習があった。


 しかし昨今はどんどん簡略化が進み、この板キリコを代わりに吊るして済ませることが増えている。


 蝋燭はカラスが咥えていって火事の原因になることがあるので危険だし、板キリコの方がゴミの分別の手間も防ぐし、自然環境には優しいのだろうが、何だか表札や名刺みたいで味気なく感じ、最初は俺はあまり肯定的ではなかった。


 しかしいざ使ってみると、手軽だし安いしで、結局毎年買い続けている。


 これも時代の流れというものだろうか。といってもここ十年間のことしか知らないけど。


 ちなみに花音はキリコを見て、「シュルレアリスム! ボトムズ! 安楽死専門医!」と喜んでいた。


 更に献花と、花音が食べたがった、はちみつシロップ付きのパンケーキも購入して店を出ると、準備万端、細い路地を抜け、墓地管理事務所の駐車場に停車した。


 ポルテを降りると早速焦げ付くようなアブラゼミの大合唱が痛いくらいに鼓膜を殴打し、事務所脇に艶やかに咲く紫陽花の蒼い花が、運転に疲れた目に優しく映る。


 暑いせいか、中々歩きたがらず、愚図って俺の尻にはちみつシロップをぶちまけて抵抗する花音を宥めすかしてその場を離れると、水場に置いてある青いポリバケツに並々と水を汲み、板キリコや花や線香などを入れたビニール袋を左手に、バケツを右手に持って、墓地の中を走る車道を歩いて行く。



 参ることの許されない墓を目指して。

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