第五十八話 絶対汚食事中に読まないで下さい
「ユミバちゃん、何はともあれ会場まで逃げて、司令たちと合流してくれ!
頑張れ! 俺もすぐ行く!」
俺は必死で、彼女に通信で呼び掛ける。
悪徳プロデューサーの悲惨な絶命シーンは、自業自得とはいえ、彼女の心に少なからぬダメージを与えたようだ。
ここは俺が支えてやらねば!
『わかったよ、探偵さん!
でも、あの千匹の仔を孕みし森の黒山羊さんは、先回りしているかもしれないよ!
皆注意して!』
ユミバちゃんは持ち運びにくいガトリングガンを、またロングソードに形状変化させつつ、ひび割れた天使のボイスで怒鳴った。
「えっ、どういうこと?」
俺は豆鉄砲を喰らった鳩の如くキョトンとする。
どう考えても、わぬわぬがユミバちゃんを通り越して一本道の廊下を先に会場に着くことなど物理的に不可能に思えたのだ。
『だから言ったでしょ! わぬわぬは竹之内Pに対し、特殊な能力でMHKの力になると約束したんだ。
紛れもなく奴は、瞬間移動能力を持っているんだよ』
彼女は聞き分けの悪い子供に説明するように、一字一句力を込めて発声する。
「!?」
俺は耳を疑った。先日の異臭が蔓延した超兄貴もかくやという全裸男部屋でのワープの一件は、何らかの仕掛けがあるんだろうと高を括っていたのだ。
だが、やっこさんが単なる着ぐるみではなく、司令の推測通り、我らが宿敵・エロンゲーションであるなら、それくらい出来ても不思議はないか……?
『ぐぉ、砂浜君、すぐに私の方の映像に切り替えてくれ! 何かがおかしい!』
突如、その司令自身から通信が入り、俺は、「ちょっと待って下さいよ! 何事ですか?」と言いつつ急いでレインボーシステムの視聴覚共有モードを司令側に変更する。
目の前の景色が、薄暗い廊下の出口から、どんよりと雲が垂れこめているにも関わらず、やや明るい野外特設ステージへとスイッチングする。
「こ、これは!?」
「あら、この前のMHK会議室と一緒じゃないの」
羊女の言う通り、先日と同じく視野が狭窄したような歪みが生じており、全てが波打ち回転しそうに感じられた。
思わず額に手を当てながらも集中を続けると、まるで空間の一部が凸面鏡のように膨れ上がり、裂けたかと思うと、漆黒の切れ目から、宇宙の中心部で汚言を吐き散らす理性を奪われた魔王に似た存在が姿を現した。
先程のように、表面が輝いてはいないところを見ると、バリアは既に解除したようだ。
「わぬわぬ!」
『ほ、本当にワープしてきおった!
上位のエロンゲーションには、特殊能力を使える者もいるとは聞くが、実際に目にするのは二度目……いや、初めてだ……信じられんが……本当に……』
司令が、やや熱のこもった口調でうわ言のようにしゃべり続ける。
研究者としての血が騒いだのだろう。
「ど、どこから出て来たんだ? 凄いギミックだな」
「あれってわぬわぬなの? 休憩時間ってもう終わりだっけ?」
「なんか干物みたいな女の子がくっついてるよ、お母さーん。マミこわーい」
舞台の上に突如出現した、着ぐるみが真っ二つに割れた、変わり果てたわぬわぬの姿に、会場は騒然としている。
だが、演出の一部と勘違いしている人が殆どのようで、誰一人事の重大さを理解していない。
これは、非常にまずいのでは?
『触手! 触手! 触手ーっ!』
『あっ、こら、花音ちゃん! そっちに行っちゃ駄目だ!』
なんと、司令が制止するにも関わらず、俺の地球よりも大事な愛娘が、喜びのあまり怪物のいるステージに突進していく。
「花音! 司令、お願いだ、止めてくれーっ!」
『くっ、人が多過ぎて、上手く前に進めん!』
「チクチンと竜胆は何してるんですか!?」
『あいつら休憩時間だからって一緒にトイレに行きやがった! その後全然連絡が取れん!』
「アホかーっ!」
小さな脱走兵は、人混みを器用に掻い潜って、舞台の袖の階段を駆け上っていく。
『お嬢さん、いらっしゃいませだわぬ~』
『キャハハハハハ!』
恐るべきモンスターは、幼女誘拐犯も舌を巻くほどの猫なで声で花音に甘く語りかけると、触手の先をするすると伸ばして、望み通りに彼女の身体に巻き付いた。
「花音―っ!」
心臓が張り裂けそうな激情に苛まれ、俺は我知らず泣き叫んでいた。
俺の命が奪われることなんぞより、彼女が死ぬことの方が何億倍も耐えられなかった。
絶望が末期患者の癌細胞のように俺の全身を蝕んでいく。
『落ち着け! まだ奴は本気で締め付けておらん。
甘噛みのように、優しく纏わりついておるに過ぎない。
恐らくすぐどうこうするつもりは無さそうだ』
「だからってこれが落ち着いていられるかってんだ!
俺は今すぐOBSで出撃する!」
俺は熱湯コマーシャルもびっくりの早業で衣服を脱ぎ捨てると、縮地の如き速さで車内後方のOBSにディープキスをぶちかましつつ、例の抱っこ紐で自らを背脂で山盛りの身体に密着させる。
「羊女! 早くハイエースを車道に出してくれ!」
「わかったけど、直線道路まで行くのにちょっと時間かかるわよ、太郎ちゃん」
「とにかく早く! 一刻も!」
『二人とも待て。前にも話した垂直離陸システムが、実はこの前完成してな、全てのOBSに搭載してある。
それを使えばすぐにでもそこから飛び立てるぞ』
「本当ですか司令!? もっと早く言って下さいよ!
で、どうやるんです?」
『焦るな。まずはOBSごと車外に出ろ。
そして羊女は奥のクーラーボックスを開け、中の薬を取り出せ』
「えっ、薬って、なんのことです?」
『テレミンソフト3号坐剤だ。いわゆる大腸刺激性下剤というものでな、肛門に挿入後、凄まじい速度で発射するが、以前も言った通り、凄まじい下痢便で周囲を汚染することになるだろう』
「ああ、だから車外に出るのね、司令!」
「……もうこの際何でもええわ!」
俺は最早やけくそだった。てかこのままいくと、文字通り焼け糞になりそうだったが。