第三十六話 閑話休題その2
六月二十七日、午後3時。
「ウナギ釣りに行きませんか?」
平日の昼間にいきなり電話口で竜胆少年にこう言われ、俺は思わず、「はい?」と問い直した。
「ウナギですよウナギ。いまやレッドリストに絶滅危惧種入りしちゃった貴重な天然物を、根こそぎ獲りに行こうじゃないですか」
「ウナギか……」
ちょうど今、ウナギ鬼を読み終わり、いささか食欲が失せていたところだったが、最近梅雨の癖に蒸し暑いせいもあり、そろそろ鰻重を頬張りたくなってきたのも、また事実だった。
「どうです? 行きませんか?
それともウナギなんて食べ飽きましたか?」
「いや、俺だって食べたいけど、簡単に獲れるのか、あんなもん?
釣ったことまったくないぞ」
「ウナギを捕まえるいいブツが手に入ったんですよ。
だから砂浜さんは何の用意もしなくていいですよ」
「そうか、だが、何で俺なんか誘うんだ?」
「だって、平日の昼間に暇そうな大人の知り合いなんて、師匠以外にはあなたしかいないじゃないですか。
母と司令はクリニックがあるし、羊女さんも仕事だし……」
「……俺はオカマのSM倶楽部の女王様よりも暇なのか」
自分で言ってて落ち込んできたが、真実なので止むを得ない。
花音も、「ひつまぶし! 白焼き! 肝吸い!」とさっきから騒々しいので、とりあえず了承して電話を切ると、小鬼をポルテのベビーシートに押し込んで、とっとと高峰クリニックに向かった。
ちなみにアルダは数日前にクリニックを辞去して、別の知り合いの家に泊まりに旅に出たとのこと。
俺はあの夜の衝撃もあり、結局お別れの挨拶をしなかったが、ちょっと心残りだった。
そろそろ車内が暑くなってきたので、冷風が座席から噴き出す、まるでSFアイテムのようなベビーシートを購入したいのだが、どこも品切れだったので、冷房を効かせて、「暑い! 余のメラだ! 死ね!」と暴れる娘をなだめながら到着すると、竜胆少年とチクチンが、玄関先で、大型クーラーボックスと何故かロープを持って待っていた。
早くも嫌な予感に襲われたが、あまり考えないことにして、二人と荷物を乗せると、川沿いに、一路X港へと車を走らせた。
空は相変わらず晴れるんだか曇るんだか曖昧な様子で、海に近付くほど湿度がいや増し、不快指数も急上昇してくる。
ねっとりした空気が身体にまとわりつくようで、俺は釣りよりも温泉に行きたくなった。
時々川の上空を白鷺が飛んでいく姿が目に映った。
「ところでちょっくら尋ねたいことがあるんだが」
時々変な音をたてる愛車をなだめすかしつつ、俺は助手席の竜胆少年に話しかけた。
ちなみにチクチンは後部座席の足元に転がっている。
揺れがひどいのでボーリングの玉みたいにあちこち転がって、「アッー!」とわめいているようだ。
「この前のエアファック世界大会のことでしたら、結果はボロボロでしたよ。
客はチクチン師匠を見ただけで金切り声を上げて逃げ出し、審査員に点数すら付けて貰えませんでした」
少年は拗ねたように薄い唇を尖らせる。
「いや別に聞いてないからそれ!」
「しかしスージー、じゃなかったアルダが優勝したのにはびっくりしましたよ」
「したんかい!」
つい、声が裏返ってしまう。
さすがミッション・スペシャリスト、恐るべし!
「彼女ったら、開始早々いきなリジーンズも下着も脱ぎ捨て全てをさらけ出し、観客は皆スタンディングオベーション状態でしたよ。
殆ど何もしないまま最高得点が付けられました。
『一人二役、これぞ真のエアファックだ!』『俺、ふたなりの良さが分かった!』などという賛辞の中に、『反則過ぎる!』という否定的意見もやや混ざっていましたが、基本的に観客のリビドーが点数に繋がるので、結局そのまま優勝となりました」
「なんか想像するだけで頭痛がしてきたよ……とにかく俺が聞きたいのはそんなことじゃなくて、君自身のことだ」
「僕は師匠の介添え役で、今回は出場していませんよ」
「だからエアファックのことはもういいっちゅうねん!
君と高峰先生のことだよ!」
俺はなんとか会話の軌道を修正しようと試み、核心を突き付けた。
「僕と母さんが何ですって?」
「二人は血の繋がった家族じゃないんだろう!?
あの晩君が、チクチンにそう話すのをつい聞いてしまったんだよ!」
「ああ、何だ、知っていたんですか……」
少年は、人をおちょくったような小悪魔的ペルソナを引っ込め、やや真摯な表情になった。
「こんな個人的なことをわざわざ聞いてすまないが、どうか俺に詳しく教えてくれないか?
俺の過去と非常に似ている感じがするんだ。
だからどうしても気になってね」
「……」
遠い眼をしながら無言で車窓を眺めていた竜胆少年だったが、一つ溜め息を吐くと、「わかりました、いいですよ」と小さく呟いた。