第二話 公園のトイレ付近には何故変質者が多いのか
「う~、パパ、トイレトイレ! 早く! 殺す! 処す!」
「分かったよ、花音!
だからパパの眼に指を突っこまないで!」
新緑が眩しい五月晴れの午後三時現在、抱きしめた両手の中で暴れちぎる娘の花音に困惑しつつ、俺は首をそらして彼女のサミングを避けた。
今、トイレを求めて愛娘を両手で抱えて紺のジャージ姿で公園内を全力疾走している俺は、私立探偵を営むやもめ暮らしの極一般的な成人男性。
強いて人と違うところをあげるとすれば、過去十年より前の記憶がないってとこかな~。
名前は砂浜太郎。一応本名だ。
年齢は自分でもわからないが、一応35歳ってことにしてある。
肌年齢とかがそんな感じだし。
とは言え頭髪は早くも薄くなってきているので、実はもっと上かもしれない。
ちなみに花音は1歳と九カ月、生意気盛りのおてんば娘だ。
全体的にはちきれんばかりに丸々としており、饅頭のようにぷっくらとした顔ながらも色白で睫毛は長く、絶対将来美人になるだろうと親馬鹿ながら確信している。
何でもためしてみたがるお年頃で、最近オムツは嫌だと拒否しており、パンツしか穿いてくれない。
成長振りがうれしい反面、こういう生理的緊急事態では非常に困るのが難点だ。
でもお気に入りの赤いワンピース(バーバリー)がとってもキュートだから、パパ許しちゃう。
「早く! グズ! カス! 変態! サイコ野郎! 死ね!」
「痛い! 分かったからやめて! お願い! 親指挿入はマジで危ないから!」
機関銃のように言葉を色々話してくれて、明らかに他の子よりも学習スピードが早いのだが、すぐに「死ね」だの「殺す」だの言うのは何故だろう?
俺はなるべく悪い言葉を使わないよう配慮しているのに……一時保育でまた変なことを覚えて来たのか?
そんなわけで、散歩の途中にある公園のトイレにやって来たのだ。
ここではたまに花音を遊ばせることもあり、勝手知ったるなんとやらだ。
「ん?」
ふと見ると、ベンチに一人の不審な男が座っていた。
黒いフルフェイスのヘルメットを被っているので顔は分からないが、自動車修理工のような青いツナギを着ており、ややふっくらとした身体つきながら、裾から覗く日に焼けた肌や、服を着ても分かる筋肉の隆起は、いい男を連想させた、といっても俺は別にその気はないのだが。
「ハッ」
そう思ってると、突然その男は俺の見ている目の前でツナギのホックをはずしはじめたのだ……。
そして下半身まで差し掛かったところで、彼はむんずと右手をツナギの中に突っ込んだ。
「入らないか」
そういえばこの公園はハッテン場のトイレがあることで有名……ってそんなわけないだろ!
聞いたことないわ!
って一体何を取り出したんだよナニを!?
「こいつをどう思う?」
「えっ!? す、すごく……大きいです……ってチラシかよ!」
男が右手に握りしめていたのは、湯気の立ちそうなほど蒸れてよれよれになっている一枚のA3版のチラシだった。
「来たれ若者! OBSで未来を救え!」という文字が雄渾な筆致で書かれているのはまだいいとして、その背景に力士の如き裸の男性がずらりと描かれているなんとも言い難い代物で、俺は一瞬思考が静止した。
一体全体こいつは何が言いたいんだ?
「糞親父! 早く早く早く! 漏る漏る漏る! キル・ケイオス!」
「わ、分かった花音! 喉仏を掴まないで!」
愛娘の猛攻撃で我に返った俺は、今の一連の男の行動は見なかったことにして、トイレへの突入を試みた。
だが時すでに遅く、花音の股間に当てられた俺の右手は、生温かい感触に包まれた。
「ビエーッ!」
超音波攻撃もかくやという幼女の悲鳴が公園中に木魂する。
「ご、ごめん、花音。パパが悪かった。
そこの水道で洗おうな。なーに、暑いから大丈夫だよ」
慌ててなだめすかすも、身も世もない大絶叫は止むことも無く、大気を振動させ、木々を揺さぶり、鳥たちを羽ばたかせた。
強い動悸とめまいと発汗と胃痛に襲われ、俺は発作的に死にたくなった。
「ほら、これ」
希死念慮に苛まれる俺の背後から声がかけられる。
振り返ると、先程の阿部高和さん(仮名)がいつの間にか左手にロールタイプのトイレットペーパーを掴んで差し出していた。
どうやらトイレからくすねてきたらしい。
「おっ、サンキュー!」
咄嗟にロールをふんだくった俺は、泣きじゃくる花音のパンツを電光石火の早業でずり下げると、ウゴウゴルーガのOPテーマを口ずさみながら手に巻き取ったトイレットペーパーで娘の股間周囲を拭いてやる。
幸い着ていた服がワンピースだったためか服の被害はパンツ一枚で済み、俺の不安発作も急速に遠のいていった。
「どうもありがとう。おかげ様で助かりましたよ」
一仕事終えてようやく安堵の溜め息をついた俺は、怪しさ大爆発のヘルメット男に対し、感謝の台詞を述べた。
「いやいや、困った時はお互い様だよ。
そういうわけで、入会してくれないかね?」
男は軽く左手を振ると、まだ右手に掴んでいたチラシをずいっと俺の鼻先に突きつけてくる。
「あいにくですが、相撲取りになるつもりは全くないですよ」
苦笑いを浮かべながら、半歩後退する。
俺はこの手の怪しげな勧誘はいつも丁重にお断りすることにしている。
それにしてもこれは群を抜いて意味不明で、知的好奇心がちょいとばかり刺激されてしまうのが困りものだが、深入りは禁物だ。
「これは相撲取りじゃないよ、OBSだ」
「知りませんよ、なんですかそれ?」
いかん、つい脊髄反射的に聞いてしまった。
でもこれくらいはまだセーフだろう。
「オヤジ武装システム、略してOBSだ」
「かえって分かりませんよ!」
「うむ、説明すると長くなるが、要は正義の味方的なものだ。
この前、この街を意味不明な唇の化け物が襲っただろう?」
「ああ、そういやそんなこともありましたね……」
何時の間にやら謎の男と会話を続けてしまったが、そこでふと俺は我に返り、気持ちが沈んだ。
あの一連の騒ぎで、俺と花音は大事な人を失ったのだ……。
「覚えていたか。
あの時は自衛隊も出動したが、奴らに一切ダメージを与えられなかった」
「確かネットによると、どこぞの親父二人が退治したんでしたっけ?
非常に嘘くさいですけど」
「うむ、その通り。
その親父というのが、このOBSだったんだよ!」
「なんか無理矢理話が繋がったっぽいけど、やっぱりよく分かりませんよ!」
「分からん奴だな!」
男はドンとベンチを叩いた。
「OBS隊員は誰でも彼でもがなれるわけじゃない。
厳選された特別な者だけがOBSを装備し、使いこなすことができる、いわばエリート中のエリート中だ」
「はいはい、で、運よく選ばれたらどうなるんですか?
永久会員権がもらえる代わりに三十万円振り込めとでも言うんですか?」
既に投げやり状態の俺は、ヒックヒックしゃくりあげている花音の頭を優しく撫でつつ、濡れたパンツを絞っていた。
後で水洗いしよう。
「いや、金は一銭もいらない。
むしろこちらから毎月給料を払うぞ。
月々手取りで四十万からスタートで、試用期間は特になく、各種福利厚生も充実している。
ちなみに労働時間は一日たったの二時間で、残業手当だってつく。週休五日制で、有休は採用当日からOKだ」
「うっ」
いきなりの破格の好条件振りに俺のやわなハートはぐらっと傾いた。
実は最近とある事情で住処を失い、アパートを借りたばかりだったが、とにかく収入がろくになくてほとほと困り果てていた。
本業の探偵業は閑古鳥状態で、コンビニのバイトや新聞配達などで糊口を凌いでいる有り様の俺にとっては、その申し出を聞いた途端、通報レベルの不審人物が突如天から降臨したメシアに見えたほどだ。
(待て待て待て、そうは烏賊のテスティスよ。
いつも日曜日だけ開く駅前の謎の店に、通行人の兄ちゃんが女性店員に誘われてのこのこ入るのを見てるじゃないか)
俺は危うく思い止まった。
これこそが詐欺の手口ってやつじゃないのか?
最初は耳当たりの良い甘言を並べ立てても、入ってみれば帝愛グループも真っ青のブラック企業だったなんてのはよくある話だ。
ここは一つ、慎重になった方が良いだろう。
「で、具体的にどんな仕事をするんですか?
法的には問題ないんですか?」
「それは……」
「パパ! パパ! おっぱい!」
急に花音が大声で口を挟む。
あまり人前で絶叫してほしくない単語だ。
「こら、花音! パパの胸を触るのはおうちの中だけだって言ってるでしょ!
お外は駄目だよ!」
この子は隙あらば俺の乳首をいじってくるので、いつもその点はきちんとしつけている。
外でチク○ーもどきを見られて、警察のご厄介になるのだけは御免こうむる。
今度メンズブラでも買おうかしら。
「違う! くたばれ! パパ! 上! おっぱい!」
「上?」
真上に向かって突き出した花音の可愛い人差し指につられて上空を見上げると、なんと肌色のバルーンの如き球体が二つくっついたと思しき物体が、俺のバイト先のコンビニのある方角から、ふらふらと漂ってきていた。
球体の先頭には、ピンクのポッチもついている。
「な、なんだありゃ?」
「来たか、エロンゲーション!」
ヘルメット男が意味不明なことを口走ったかと思うと、ツナギの中にまた手を突っ込み、携帯電話を取り出した。
便利なツナギだ。
「おい、頼む! 今すぐ近所の公園まで来てくれ!
そうだな……念の為三体連れてきてくれ。
チクチンも忘れるなよ!」
素早くどこぞへの連絡を終えると、再び携帯を股間へ突っ込む。
その間にも、公序良俗に触れそうなぷよぷよはぐんぐんこちらに向かってくる。
冗談にしか見えない光景だが、その時俺は、嫌な記憶が脳裏にフラッシュバックした。
天を舞う巨大な唇が吐いた痰に焼かれる我が家と、その中で煤となっていく愛する妻の姿を。
「花音、逃げるぞ!」
「パパ! 了解!」
すかさずノーパンの花音を抱きかかえた俺は、「おい、待て!」という男の声を背に受けながら、公園内を反対側に突っ切ろうと走り出した。
しかし半分ほどの地点についたところで、「危ない!」という男の声が聞こえ、俺は反射的に足を止めた。
次の瞬間、天から光の矢が降り注ぎ、眼前のブランコを融解させ鉄屑に変えた。
慌てて空を仰ぐと、まだ距離があると思われた先程のおっぱい風船から、怒涛の勢いで母乳ならぬビーム光線が雨あられと撃ち出され、公園を破壊していた。
「ひええ……」
さすがの俺も、足がすくんで屈んでしまいそうになった。
本当に危なかった。
あと数秒立ち止まるのが遅ければ、俺と花音は、ぐちょぐちょの人間親子丼と化していただろう。
その時、公園のトイレ側出口に、一台の白いワゴン車が急停止した。
トヨタのハイエースだ。
俺は猛烈に悪い予感がした。
多分あの男が呼んだんだろうが、拉致監禁で悪名高いかの車(偏見です)がこの場面にやって来たのはどういう意味があるんだ?
「何やってんだ、早く乗れ!
そしてあれと戦うんだ!」
ヘルメット男が車のドアを開けながら、こちらに向かって叫ぶ。
どうやら俺の自由意思は何一つ尊重されてない模様だが、他にこの場から逃げる手段も無く、事ここに至っては仕方ない。
あきらめの溜め息を一つ吐くと、俺は残骸と化しつつある公園を突っ切り、(どっきりホモAV撮影企画じゃありませんように)と神に祈りつつ、異界への門にも等しい車内へと乗り込んだ。