第一話 コンビニの成人誌コーナーは何故トイレ前に多いのか
日本海側のX市には珍しく晴れ間の覗く五月三十日の午後三時。
ポロシャツとジーンズに身を包んだ江守黒雄は、本日発売のエロ漫画誌「極楽天」を立ち読みしに、行きつけのコンビニのドアを押し開いた。
「いらっしゃいませー」
欠片も心のこもっていない暖かい出迎えの挨拶を背中越しに受けながら、彼はトイレ近くの成人誌コーナーへと足早に向かった。
お目当ての、ピンクと桃色と黒が眼に痛いカラフルな表紙が、数メートル先から早くも視界に飛び込んでくる。
さすがエロ漫画界のジャンプの呼び名は伊達ではない。
彼は天井付近に素早く目をやると、毒花のような雑誌を一冊抜き取りつつ、監視カメラの死角となる位置にさりげなく移動し、雑誌の表面を二か所で留めている青い透明テープを、慎重にペリペリと剥がしていく。
あまり姑息な真似はしたくないのだが、エロ漫画誌ほど中身を確認しないで買って後悔するものは無い、というのが彼の人生訓だった。
首尾よくテープを綺麗に剥がし終えると、大柄な体で覆い被さるようにして雑誌をかくし、そっと表紙をめくる。
毎度のことながら息詰まる瞬間だ。
「あった!」
巻頭カラーから、「お兄ちゃあああああああん! ミクのミルクででででちゃうううううううん!」という吹き出しの横で、さっそくまん丸のゴム毬の如き乳房がちぎれんばかりに上下に揺れており、ヘッドライトの如く軌跡を描く両乳首の先端からは、人間の常識では有り得ないほどの母乳がドバドバと景気良く噴出している。
「ああ、これだよこれ。
さすが古都寄席由美之介先生はよくわかっておられる」
黒雄は恍惚の表情を浮かべつつ、全身を震わせた。
股間は痛いくらいに怒張し、安物のジーンズを破らんばかりに押し上げる。
外人は総じて日本人よりデカチンの癖に、よくこんな拘束具のような衣服を開発したもんだ、と彼は愉悦に浸りながらもどうでもいいことを思った。
「でも兄妹ものって設定だけは余計だな……」
二人の姉及び妹をそれぞれ持つ黒雄は、女性の恐ろしさを骨身に染みて思い知らされながら育ったため、三十五歳の今まで彼女というものを欲しいと思ったことすらなく、三十路にしてミソジニスト(女性嫌悪者)と化していた。
しかし鬼のような女家族の中で、母親だけは彼に優しく、中学校に入るまでおっぱいを触らせてくれ、末の妹が生まれた時などせがむ彼にこっそりと母乳まで飲ませてくれた。
そんな歪んだ記憶のせいか、彼は次第に母乳に興味を持ち、搾乳ものにのみ性欲を覚える身体となった。
搾乳ものは以前は超ドマイナージャンルであり、オカズ画像を捜すのにも難渋したが、インターネットの発展に伴いニッチジャンルの活性化が起き、ここ数年俄かに市民権を獲得しつつあり、彼の飢餓感はようやく満たされつつあった。
ちなみに実写AVでも搾乳ものを色々試みてみたが、そもそも母乳を出すような美人AV女優という存在は極めて個体数が少なく、さんざん心をへし折られるような物件に出くわしたため、忌まわしき三次元からは一切足を洗い、汚れ無き二次元にのみ安住の地を求めるようになっていた。
古都寄席由美之介はこのジャンルの中でも神絵師と崇め奉られる存在であったが、あまり仕事をせず、唯一「極楽天」でのみ細々と掲載されるくらいだった。
但し毎回母乳が出るわけでもなく、ほぼワンコインもする高額な雑誌をフリーターの彼が毎号買うのは結構痛手なため、規則違反と知りながらも、こうやってこっそり搾乳の有無を確認してから、ポイント二倍デーに購入するのだった。
同誌には他にも貧乳漫画家として有名なぐぁさん先生も載っており、両派閥から愛読される珍しい雑誌だった。
とにもかくにも、彼女や親しい友人などは皆無で人付き合いが悪く、酒や煙草は一切やらない黒雄にとって、この瞬間こそが唯一の至福の時だった。
(まったく、彼女をつくりたがらないだけで、皆すぐホモ扱いしやがって。
理由は人それぞれだろうに……おっといかんいかん、早く読み終わらねば)
過去の嫌な思い出がつい脳裏をよぎり、手が止まりかけていたが、すぐさま現実に自分を引き戻した彼は、立ち読みを再開する。
店員に気付かれる前に、全内容を確認しなければならない。
と、その時である。
突然視界がぼやけたかと思うと、カラーページの乳房が、紙面から飛び出すかのように、徐々に盛り上がってきた。
「ど、どうしたんだ!?」
ネットのし過ぎかと思って目を擦るも、薄っすらと肌色のふくらみが立体化していく様は変わりなく、どうやら幻覚などでは無さそうだ。
半透明でまだぼやぼやとしており、存在感は希薄だが、時間の経過につれて、どんどん色が濃くなり、実体化しているように感じられる。
(3D印刷なんてレベルじゃねーぞ!
あれ、でも最近こんな現象をネットニュースで読んだような気が……)
惑乱の渦中にありながらも、黒雄は頭の中から有象無象の報道情報をダウンロードする。
確か一カ月ほど前、X市上空に巨大な唇が出現し、爆弾もかくやという可燃性の痰を撒き散らすも、その場に駆けつけた、謎の親父二人によってたちまち滅ぼされたという、白昼夢の如き出来事があり、ネットの掲示板や各種SNSには
「自衛隊の手の込んだ隊員募集イベントじゃね?」
「プロジェクションマッピングもついにここまできたか……」
「H市のUFO館で特別展示会開催だってよ」
「UFOって言ってもチ○ニー用の器具じゃねーぞ」
「ハーブか何かやつておられる?」
など様々な憶測及び無責任な書き込みが溢れ返った。
また、その便所の落書きにも似た駄文の洪水の中に、風俗店の看板から唇が徐々に飛び出してきて、立体化したという真偽不明の目撃談も含まれていた。
(ああああ……)
そうこうするうちにも、双丘は風船大にまで膨れ、ついにはカラーページと完全分離し、ぽよんと黒雄の眼前に浮かび上がった。
それは乳房であった。
「綺麗だ……」
彼の口元からこぼれたのは、驚きや恐怖ではなく、意外にも賞賛の台詞だった。
純粋に心の底からそう思った。
現実のよりもつやつやとし、艶めかしく、ロッファー乳頭のような余分なぶつぶつも無く、しかもフィギュアのように硬質で不自然でもなく、不気味の谷を遥かに超越した完璧な存在がそこにあった。
乳輪は大き過ぎず小さ過ぎず程良い塩梅で、乳首も長過ぎず短過ぎず、かと言って陥没してもおらず、色も茶色でも黒色でもなく、桃の実を思わせる蠱惑的なサーモンピンクで、無粋な毛の一本も生えていなかった。
(吸いたい……)
花の蜜に吸い寄せられる虫の如く、感極まった黒雄が無意識のうちにその先端に唇をつけたとしても、誰が攻めることが出来ようか。
現実のものよりはやや大きめであったが、そんな些細なことは最早どうでもよかった。
なんだか懐かしい味までもが舌の先に感じられる気がして、彼は双眸を倍くらいに押し開いた。これは、もしや……。
(ほ、本当に母乳が出ている!?)
口腔内が明らかに、ほのかに甘い液体に満たされつつある。
素晴らしい。
最早、幻覚でも白昼夢でも4Dシアターでも何でもよかった。
「な、なんだありゃ?」
「あんた、大丈夫か!?」
さすがに店員や店内の客達も異変に気付いたらしく、店内が騒然としてきたが、黒雄の耳には何一つ入ってこなかった。
この至福の時を一秒でも長く味わっていたいという欲求のみに突き動かされ、彼は無心に異形の肉塊に吸いついた。
周囲などどうでもよかった。
「ぐぼぁっ!」
次の瞬間、乳頭の先端から母乳の代わりに超高熱の何かが噴出し、黒尾の頭部を貫いた。
(ああ……気持ちいい)
絶命する間際、彼が感じたのは激痛ではなく、聖母に抱かれるような安らぎであった。
こうして江守黒雄は、三十五歳という若さで、童貞のまま死亡した。
その同時刻……。