第百八十二話 デジャブ その2
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
俺は荒い息を吐きながら、激痛と屈辱になんとか耐え、意識を保とうと精一杯努力した。
全身から脂汗が絞った雑巾のように流れ落ち、冷たい緑色の床に滴り落ちる。
このまま不思議の国のアリスみたいに自分の汗(あれは涙だったか?)で出来た池に溺れてしまうような錯覚に襲われ、俺は息苦しさを覚えて大きく息を吸い込んだ。
しかし妙にオイル臭い嫌な臭いのする空気だ。ここはひょっとして工場か何かなのか?
「あーら、ごめんなさーい。つい力を入れ過ぎちゃったわーん。でも素敵なお手々ちゃんだったので、我慢しきれなかったのーん」
「がはぁっ!?」
突如、上から聞こえる暴力野郎の口調がオカマ言葉に変わり、裏声まで使い出したので、俺は一瞬痛みもぶっ飛び、せっかく吸入した空気を全て吐き出してしまった。
一体どうしたってんだ!? 収容所や工場なんかじゃなくて、場末のSMクラブですかここは!?
「それにしても見れば見るほどキュートでプリチーな小指ちゃんねー。これでマイ乳首をホジホジしたら、どんなにいい気持ちかしらーん? あーん、チクニーで朝食をー!」
暴力オカマ野郎のボルテージがヒートアップし、どんどん声のキーが上がって金属に覆われた部屋の中でけたたましく反響するので、たまらず俺は耳を塞ぎたくなった。縛られているので無理だけど。
だが、そんな拷問にも等しい最悪な状況で、俺の脳の回路がカチリと繋がる奇妙な感覚が生じ、今まで漆黒のヴェールに覆われていた記憶の数々が、あたかも天窓から差し込んだ朝の日光によって闇が一掃されるように、鮮明に蘇ってきたのだ。
どこかの真っ暗な浜辺を全裸でさまよい、白衣の男たちに追われる女性を助けようとして逆に自分が捕まり、警察の留置所で女医に砂浜太郎と命名され、護送され隔離された精神病院内でくだんの女性と再会し、変態たちの巻き起こす奇妙な事件に巻き込まれ、すったもんだの末に退院してその女性と結婚して女の子を授かった日々を……
「ああああああーっ!」
いつしか俺も、嬌声を上げるオカマに負けないぐらいの音量で、喉も張り裂けよとばかりに絶叫していた。
「ぬ、いかんな。そんなに痛かったか?」
出し抜けに変態カマ野郎の口調が再び元の男っぽいものに戻ったかと思うと、身を屈める気配と共に、髭だらけでごつい真四角に近い顔が俺を覗き込んだ。
年の頃は五十代程だろうか。精悍で色黒な顔つきは典型的な東洋人のオヤジのものだが、どこの国の人間かは判断がつきかねた。
何故日本人と断定しなかったのかというと、何となくだが日本語のイントネーションに微かな違和感を覚えたから。
「すまんな、ワシは興奮すると、つい我を忘れてちとやり過ぎてしまう癖があってな。ついでにちょっぴり喋り方も変わるが、細かいことは気にするな。ガハハハッ!」
ゲジ眉をハの字にして耳元で豪快に笑う謎のオヤジのせいで、俺の痛みは更に倍増したが、どうせ文句を言っても無駄な気がしたので、俺は口を閉ざして、心も閉ざした。
「で、どうだ?そろそろ自分の本名を思い出したか? また指が無くなる前に喋った方が楽だと思うぞ」
「……いくら聞かれても、砂浜太郎だとしか言えませんよ」
俺はぶっきらぼうに言い捨てた。実際命名の瞬間を覚えているので間違いない筈だ。記憶が捏造でない限り。
「まだ戯言をほざくか貴様! 下手に出てやればつけあがりおって!」
「うがあっ!」
奴の罵声とともに、先ほどと同様の激痛が左手の中間辺りに走ったため、また口を開けて吠えるしかなかった。
すいませんが次回も四週間後更新予定です。では、また。