第百七十五話 ダ・カーポ その3
女性の姿はもはや確認するのも困難なほど朧で、春の淡雪のように溶け去ろうとしていた。
だが、その峻烈な言葉によるダメージは、俺の全身をなますのように切り刻んだ。
「な、なんで俺が未来を知ったら死を選びたくなるんだよ!? 意味がわからないよ!」
俺は虹をつかもうとする子供のように両腕を彼女目がけて伸ばしていた。
「……それはご自分の眼で確かめるしかないのです、すいませんが。それよりも、今現在の周囲の状況をよく覚えておいてください。後で何かの役に立つかもしれません。私から言えることはそれだけです」
さざ波の音色にかき消されそうになりながらも、彼女の声は俺の耳朶に辛うじて届いた。
多分限界が近いのだ。俺は人の臨終を看取る医者のような気持になった。
おそらくもう、彼女は助からない。
「なんで俺のためなんかに、その力を使ったりなんかしたんだ!? 使わなければ、あんたが消えることはなかったんだろ!?」
「それは、あなたが私の一番愛する人だからです、お父さん。この世界の、否、全次元を含む三千世界において、あなた以上に私を大切にしてくれる人はいませんでした。あなたの子供になることが出来て、本当に良かった。我儘でお転婆のおちゃっぴいで、言うことを聞かずにごめんなさい。そして、我儘ついでに最後に一つだけ、お願いがあります」
天と地の間の緊張感が一気に高まり、俺は我知らず姿勢をただした、全裸だけど。
「お願いって……俺に出来るようなことか?」
「はい。どんな辛いことがあったとしても、絶対に死なないと約束してください。閻浮提の出口のない無明の闇を永遠にさまよっているように思えても、生きてさえいれば、いつの日か必ず報われる時が来ます。決して諦めず、希望を捨てないでください……」
彼岸にある遥か遠い場所から響くかのような微かな囁きが、次第に途切れ途切れになっていく。俺は焦った。
「わかったわかった、わかったから! たとえゴミを食べても、芋虫のように地べたを這いずり回ってでも、生き抜くと約束するから! だから勝手に行かないでくれ! こんなわけのわからない世界で俺を一人ぼっちにしないでくれええええええええええーっ!」
俺は後先考えずに街金から借金しまくる多重債務者のごとく無責任な誓いを立てつつ、恥も外聞もなく、親と迷子になった子供のように感情的に泣き喚いた。
彼女と別れたくない、心の底からそう思った。
「安心して下さい、お父さんは一人ではありません。それに私とはまた、以前とは違う形ですがめぐり合うはずです。だから死なないで……お元気で」
「かのおおおおおおん!」
「そして、いざという時のために、私の残った力の全てをお父さんに授けます。受け取って下さい。たった一回だけですが、お父さんを絶望の淵から救ってくれるでしょう。では、さようなら……」
俺の雄叫びも空しく、その別れの台詞を最後に、天上の声はぷつりと途絶えた。
と同時に、教会の神秘的な天井画のごとき彼女の姿が燃え尽きる寸前のロウソクのようにひときわ強い輝きを放ったかと思うと、きらめく無数の粒子となって四散し、千の欠片が燦然と俺に降り注いだ。
光の雨が降り止んだ後は、花音は完全に消え失せ、後にはまるで芝居の書き割りのようなのっぺりとした雲に覆われた夜空が、俺の前に巨大な壁となってそびえたっていた。
「……」
言葉を失った俺は、ただただ無限の喪失感に苛まれ、悲しみに打ちひしがれ、でくのぼうのようにその場に突っ立っていた。
話の展開上ギャグ成分がまったくなくて申し訳ありません!
次回の更新日は未定ですが、一ヶ月はかからないよう頑張る所存です!では、また。