第百五十六話 OBS誕生 その1
そしてシーンは三度変わる。
白い壁とリノリウムの床に囲まれたどこかの病室らしき部屋で、ベッドに横たわり青色の病衣を纏った、どこかで見かけたような気のする三十代ぐらいの女性が、傍らのパイプ椅子に腰かける、角刈り頭の男……司令に話しかけている。
「外では、易怒的な女性狩りは、まだ続いているようね、あなた」
透き通るような肌の彼女は、愁いを帯びた顔をしていた。
「そうだが、気にすることはないよ。それにお前は大丈夫さ、こんなに優しいんだもの」
司令はナイフでリンゴの皮をシャリシャリと剥きながら、穏やかに語り掛ける。病室にはカーテンの隙間から暖かな日差しが差し込んでいた。
「あら、私って小さい頃は、とってもきかん坊のおちゃっぴいな子だったのよ。両親が、振り回されてとても大変だったってよくこぼしていたわ」
彼女は少し表情を和らげ、儚い笑顔のようなものを形作る。
「とにかく休んで先生の言うことをよく聞き、早く良くなってくれ」
「いいえ、どうせもう長くはないわ。自分の体のことは自分がよくわかるもの。それよりあなた、大事なお願いがあるの」
女性は今度こそはっきりと、春の日差しのように暖かく微笑んだ。
その笑顔を見ながら、背後霊状態の俺は思った。やっぱりこの女性と、どこかで会ったことがある、と……。
「な、なんだよいきなり。離婚とか言わないでくれよ。おならしたあと、『はい、深呼吸してー』なんてもう二度と言わないから!」
「そんなことやっていたのか、貴様。今度やったら殺すぞ」
突如南風のようだった女性の声音が厳冬の吹雪の如く豹変し、室内が凍りつく。
だが俺も、女性の意見に同感だった。
「すすすすすすいません……お茶目な出来心だったんです。どうかお許しください……」
青菜にハバネロを振ったように萎れた司令が、剥きかけのリンゴを放り出して土下座する。
ようやく溜飲が下がった女性は、再びバラの花の如く莞爾と微笑むと、寛大にも、哀れな夫に恩赦を与えた。
「バカね、本気で怒ってないわよ。でも、これから話すことは、あなたにとっては、ある意味離婚よりももっと酷なことかもしれないわよ」
「ど、どういうことだ、そりゃ!?」
なんとか離婚の危機寸前から首の皮がつながった司令が、勢いよく立ち上がる。
「今度あなた、エロンゲーション対策課の主任に選ばれたって言ってたわね?」
「そ、そうだが……」
「対策課の知り合いに聞いたんだけど、あなた、就任の挨拶でこう言ったそうね。
『数世代前からの、全人類の脳に生体ナノコンピュータを注入し、知能や情報処理能力をケタ違いに向上させた政策のツケが、今頃になってこんな形で回ってきたのだ。
その結果、前頭葉から生じる理性に押さえこまれていた、未だ世界的に抑圧されている女性たちの感情の波が、ナノコンピュータと結合し超常の力を得た大脳辺縁系によって具現化され、世界に向けて怒りを爆発させていると推測される。
もっとも現実的な対策法としては、倫理的な点さえ無視すれば、生きた女性の脳を摘出し、感情波を収束させて異世界に転送させる装置と化すことだと思われる』って」
「そ、そりゃ、仕方ないだろ。それが事実なんだから。
一緒に動物実験したお前が、一番よくわかっていることじゃないか」
司令の声は、心なしか震えていた。
「別にそれに関して異存はないわ。
現状みたいに、タカ派の男たちが、易怒性の疑いのある女たちを無理矢理拘束し、処刑しまくっている末世よりは、人一人の命の犠牲で済むのなら、まだマシだと思うの。でも……」
「そ、その先は言わないでくれ……頼むから!」
司令の声は次第に大きくなっていき、哀願調になるも、彼女の決心は固い様子で、微塵も揺らがなかった。
「その世界を救う装置に、私の脳を使って欲しいの。もちろん生きたまま」
「絶っっっ対にダメだ! なんでお前が犠牲になる必要があるんだよ!?」
司令はベッドサイドの棚をドンと叩き、リンゴがぐらりと揺れた。司令の顔のように真っ赤なリンゴが。
「実際にこの残酷な理論を構築したのが私だからよ。
あなたは単に動物実験で検証してくれただけだし、全責任は自分にあるわ」
彼女はほっそりとした右手で、自分の胸を押さえた。悪魔的な責任の所在を示すかのように。
俺はさっきの場面とは別の意味で、この場で何一つできないのを歯がゆく感じた。
全てはもう、終わってしまったことだとわかってはいても。