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第百十九話 バラ色の日々

 最初は、銃で撃たれて死に、海の底に沈んでいるのかと思った。


 なぜなら周囲の景色が全てマリンブルー一色で、身体が冷え切っていたからだ。


「太郎君、大丈夫!?」


 師匠……じゃなかった、今や俺の奥さん思羽香の声が頭上から降ってきたので、俺はようやく、自分が奇跡的に生き延びたことを知った。


「ど……どうやら大丈夫みたいだけど、ここはいったいどこなの?」


 壁一面のみならず天井の一部にまで青色が施された座敷の中央に横たわっていた俺は、恐る恐る身体を起こした。どこも怪我をしている様子はない。


「ここはうちの料亭の群青の間よ。糞親父があの後、『久しぶりに銃を撃ったんで猟がしたくなってきたわい!』って言い残して冬山に出かけちゃったんで、その隙に気絶したあなたを運び込んだの」


「す……凄いワイルドなお義父さんだね。バカボンの警察官もびっくりの発砲振りだったよ」


「あれでも昔よりはだいぶ丸くなったのよ。以前、ミ○ュランの覆面調査員を殺すために、ベトコンばりのデストラップを店中に仕掛けた時もあったし」


「どう突っ込んでいいのかわからないよ!」


「とにかく今日は、一旦我が家に帰りましょう」


「わ、我が家って、ここが君の家じゃないの?」


「ここはあくまで私の実家。私が現在住んでいるのはちょっと離れたところにある一軒家よ。


 うちの持家で、昔母方のお爺ちゃんが一人で住んでいた所を、彼の死後にちょっと改装したんだけど、二人で暮らすなら十分な広さだと思うの」


「て、ことは……」


「ええ、そこが私たちの愛の巣よ、マイダーリン」


 吐く息ですら泡となって天井に立ち上っていきそうな群青の間で、地上に憧れる海底の人魚姫のように、思羽香は夢見るような表情の美貌を俺に向けた。



 というわけで、俺と思羽香はその日から街のやや外れにある、二階建ての木造家屋に暮らすことと相成った。もちろんこの日が祝福すべき俺の脱・童貞記念日となったことは言うまでもあるまい! 


 感激のあまり、俺は翌朝トイレで思わず俺のマイサンに「よく頑張ったね」と口づけしそうになったが、ぎっくり腰が生じかけたのでやめた、てかそんなことはどうでもよろしい。


 さて、思羽香は退院後、夜の仕事は一切せず、小さな会社の事務をして、真面目に働いていた。


 しばらくは完全にヒモ状態の俺だったが、さすがにこのままじゃいかんと奮い立ち、重い腰を上げて近くのハロワに通うも、予想通り何の学歴も資格も持たない俺に好条件の仕事なんかあるわけもなく、コンビニのバイトや新聞配達をすることとなった。


 横柄な態度の先輩や、外人の同僚も多くて最初は戸惑ったりもしたが、閉鎖病棟で鍛えられたコミュニケーションスキルを駆使し、徐々に仕事に慣れて行った。


 ただ、篠原の言い残した「探偵に向いている」という助言が常に耳元に付きまとい、人生の目指すべき目的として俺の心の奥底でずっと燻っていた。


 ある日とうとう思羽香に想いを打ち明けたところ、「あら、いいんじゃない。やってみたら? 協力するわよ」と気楽に言われたため拍子抜けしたが、そんなこんなで自宅を仮事務所とした「ビーチサイド探偵事務所」を立ち上げることと相成った。


 といっても実際は名ばかりで、犬探しの依頼すら来なくて大量の閑古鳥がバードストライク状態のため、開店休業状態が何年間も続くこととなったが。


 ちなみに退院後も天神病の通院は月一回きちんと継続していた。しかし記憶が蘇る兆候はまったくなく、それ以外は特に何の症状もなかったので、高峰先生からも、「さすがにもういいだろう」とお墨付きをもらい、五年程で一旦終診となった。


 妻の実家とは表面上行き来がなかったが、彼女の母親の桐だけはこっそり思羽香と会っている様子で、何かと気にかけてくれている様子だった。


 こうしてパンケーキにどっぷりかかったメープルシロップ以上の幸福塗れのバラ色のような日々が過ぎて行ったが、一つだけ残念なことに、二人の間に子供が生まれる気配は全くなかった。


 しかし思羽香に産婦人科受診を勧めても、彼女はかたくなに拒むのみだった。


 俺は図書館やネットで不妊症について色々調べたり、高い特殊な玄米を取り寄せては毎食一緒に食べるなど、妊娠するのに良いと言われることは何でも試した。


 その甲斐あってか、結婚後7年以上経って、遂に彼女は「妊娠したわ」と俺に告げた。この時ばかりは俺も涙を流して喜び、彼女の体を抱きしめた。


 これでようやく彼女の両親の冷遇から解放される、とその時俺は確信し、安堵した。


 だが、お腹が膨れてくるに従って、彼女の表情から笑顔が消えていき、溜息ばかりが多くなった。


 時々、「こことは違う、別の世界に行けたら楽になるのかもね……」と呟くことがあり、俺はどう声をかけていいのかわからず気まずい沈黙だけが重い水銀のように二人の間に流れるのだった。


 そうこうするうちに臨月も間近になり、ある冬の日、彼女は遂に意を決したのか、「これからしばらく実家で暮らすわ。私一人だけならさすがに両親も文句を言わないでしょう。悪いけどあなたは絶対に来ないで。定期的に連絡はするし、赤ちゃんが無事生まれたら必ず帰ってくるから心配しないで」と言って荷物を持ち、家を出て行った。


 ひとりになった俺はたまらなく不安になったが、彼女を信じてオナ断ちをし、ありとあらゆる神に祈った。


 そして、冬も終わりに近づき、もうじき春が訪れようとしていた少し暖かい日の朝、彼女は玉のように可愛らしい女の赤ん坊とともに、我が家に帰宅したのだった。



 これが、我が愛娘・花音と俺との出会いだった。

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