第百十五話 移ろい行く人々
川から吹き上げる清涼な風が簾を微かに揺らし、風鈴を鳴らす。風は十畳ほどの青一色の座敷を通り過ぎると、廊下に向かって立ち消えていった。
俺は、机の上に置かれたお茶と和菓子には手を付けず、ひたすら対面の海野桐を見つめ続けた。彼女の着ている上品な着物も、部屋と同じ藍色だ。
ここは海野思羽香の生家にして、創業四百年を誇る、X市でも指折りの老舗料亭、「万香楼」の二階、群青の間である。
数寄屋造りの室内は、X市の武家が好んだといわれる特有の群青色で壁一面が塗り込められており、初めて通されたときはまるで深海のような雰囲気に度肝を抜かれたものだ。
瑠璃を使用したといわれる目にも鮮やかなブルーは、この夏の暑さにも涼しさを感じさせてくれ、意外と心地よかった。
「お茶よりもジュースの方が良かったですか? クランベリージュースならありますけれど、あれは酸っぱくてお口に合うかどうか……あの娘が好きだったものですから、私も愛飲しているんですけれど」
地蔵と化した俺がさすがに気になったのか、桐が優しく声をかけてくる。
「い、いえ、お気遣いは結構です」
俺は慌てて手を振った。クランベリージュースと聞くと、どうしてもあの怪物女こと高山茜を連想してしまう。
あの事件の後知ったことだが、彼女は頻尿や排尿時痛といった尿路感染症状をずっと訴えていた。まあ、性欲が有り余っていたし多分オ◯ニーのし過ぎのせいだろう。
それを思羽香はクランベリージュースを勧めることによって、尿を酸性化し、また、尿道への細菌の付着を抑制し、尿路感染の再発を抑えることに成功していた。
医学的には僅かな効果しかないとされてはいるが、女性の再発率を下げるとは言われているし、毎日飲ませ、効力を高めていたようだ。
何より思羽香は彼女の良き話し相手になり、不安症状を抑え、また絶大なる信頼感を植え付けることによって、暗示の作用をももたらしていたらしい。さすが占い師。
「ごめんなさいね、急に花音ちゃんを預けさせちゃって。大変だったでしょう?」
「いえ、知り合いのクリニックに頼んだら、快く引き受けてくれましたよ。最初は愚図ってましたが、到着して好物のそうめんを見た途端、『パパ、バイバイ! アデュー!』状態でした」
いささか腹が立つが事実である。
「フフッ、面白いわね、彼女。それにしてもこうしていると、あなたがあの娘と初めてここを訪れた日を思い出しますわ」
老婦人は白さが増した前髪の奥で目を細めた。
「ええ、そうですね……」
俺も、ここに来るきっかけとなった、十年前のあの日に思いを馳せていた……。
「よう、砂浜太郎君。久し振りだな」
「ギャーッ! い、いののののの!」
診察室に入った俺は、白衣を着た猪が椅子にふんぞり返って座っていたため、仰天してすっ転んでしまった。
「おいおい、酷いじゃないか、私だよ、私」
「ってその声は……ひょっとして、高峰先生!?」
「ああ、いろいろあってこんな顔になったが、私は紛れもなく、高峰桔梗その人だぞ」
「いろいろあり過ぎですよ! いったいどんな呪いにかかったっていうんですか!?」
冗談抜きで胆の冷えるような思いをした俺は、メスオークと化した元美女に、容赦なく突っ込んだ。
「ハハハ、突っ込み振りは健在なようだな。実はあの後形成手術を受けたんだが、元の顔に復元するのは完全には難しいと言われたので、いっそそれなら猪そっくりにでもしてくれと頼んでこうなったのさ。
正直美人女医ってのはサイコ患者に付け狙われることもあるし、舐められることも多かったんで、まったく違う顔になりたいって願望は前からあったんだ。
どうせ胸も偽物だし、顔面も偽物でいいかもと思ってな。うざい男避けにもちょうど良いしな。ま、他にも理由はあるんだが……」
「それにしても思い切りが良すぎますよ! 男に嫌われたいなら、いっそダサい方言でも喋ればいいじゃありませんか!」
「おっ、それもいいアイディアだな。今度から試してみるわ」
変わり果てた女医は、ワニのような大口をにんまりとさせた。
あの運命の夜から、早四カ月が過ぎていた。あれから実にいろいろなことがあった。
二か月前に、海野思羽香は退院した。傷が癒えて再び天神病院に舞い戻った彼女とは、やや気まずくて、あまり話すことはしなかった。
彼女はやや落ち込んでいるようにも見えたが、それでも俺の姿を見ると、微笑みを返してはくれた。
結局彼女が犯した罪がばれることはまったくなく、症状も改善したとのことで、医療保護入院も解除され、家族の迎えとともにあっけなく去って行った。別れの挨拶が出来たことだけは、俺としては上出来だった。
高野茜が自室で窒息死していたのは、思羽香が退院したすぐ後の事だった。なんでもあの糞汚い乳房を自分の口に咥えて死んでいたらしい。
水飴よりも濃い母乳を吸ったのであれば息がつまるのは当然だろうし、おそらく自殺だろうということで簡単に片付けられた。彼女なりにいろいろと思うところがあったのだろう。
清水栄三郎が、あの忌まわしい黒い阿弥陀仏を口に咥えてベッドで窒息死していたのも、ちょうど同じ頃だった。また寝ぼけて間違えてしゃぶったのだろうが、暑くて体力が落ちていたためか、今度はうまく飲み込めずにつっかえてしまったのだろう。まったく、どう見ても篠原が悪い。
ちなみに篠原誠はその後風邪をこじらせて死んだ。