第百十二話 長い夜の終わり
「ああ、誓う」
短く、それだけ答える。だが、思羽香には十分伝わったようだ。薄く笑みを浮かべると、「信じてるよ」と言いつつ、彼女と俺たちの間に横たわる一見何の変哲もない地面をつま先で軽く蹴った。
「ここからの流れとしては、患者に死なれて落ち込んでいた先生が、当直中にふらっと月見をしたくって外に出て行き、うっかりゴミ捨て用の穴に落ちてバタンキューってのを演出しようと計画していたんだけど、ご破算になっちゃったよ。
でも、せっかくの仕掛けを全く無駄にするのも彼に悪いし、こう使うことにするわ」
「!」
先程女医の顔を古新聞のようにズタズタにした切っ先が、思羽香の細い首筋に叩きつけられる。
「思羽香!」
「姉さん!」
俺と高山茜は同時に、悲鳴に近い声を上げた。
潜血に塗れた彼女は、それでも気丈に、「動くな、茜! これは最後の命令だ!」と怒鳴りつける。
途端に俺の後ろの傀儡は、よく仕込まれた猟犬のようにぴたりと止まり、俺と高峰先生も一緒にその場に張り付けとなった。
「私は、引き返そうにも、とっくに血塗れになっちまっていたんだ。今更何事もなかったように娑婆には戻れないよ……」
その足が踏み出した一歩は、蟻地獄へのひとつみち。流砂の如く地表が割れ、彼女はひとり底なし沼へと落ちて行く。
「思羽香、まだ間に合う! 引き返せぇ!」
俺は、病院中に響き渡れとばかりに、血の叫びを吐いた。
「でもね、砂浜君。最後の最後であの人のことを夜風が思い出させてくれた。臭いって言うのは記憶と直結しているってのは良く言ったもんだねぇ。
建ちゃんが望んでいたのは、敵を打つことなんかじゃなくって、報われない人を助けてあげることだったってのも、強烈にフラッシュバックしたよ。だから、先生の命ぐらいは……」
その言葉を最後に、彼女の身体は完全に砂地に沈み、忽然と地上から姿を消した。
「思羽香ぁ!」
「姉さん……!」
やがて砂地に、徐々に紅い染みが浮かび上がる。童謡に唄われる、地獄に咲くという狐牡丹の華のように。
ドサッと音を立てて、背後で何かが倒れる。見ずともわかった。高山茜がショックで失神したのだ。その拍子に彼女の手にしていたブラジャーの締め付けが緩んだ。
「先生、全身全霊を振り絞ってください!」
「わかった! 砂浜太郎君!」
俺たち二人はKKD、いわゆる火事場のクソ力を発揮し、両手に力を籠め、悪趣味なブラジャーを引き千切ろうと試みた。
手にワイヤーがミリミリと食い込み激痛が走るが、そんなことに構ってなんかいられない!
「うおおおおおおおおおおおおおおおお!」
「ベルサイユのブラアアアアアア!」
「ブラジャートムゥゥゥゥゥゥゥゥゥ!」
「思羽香、好きだああああああああっ! 死ぬなあああああああっ!」
「砂浜っ、何故今告白をっ!?」
「ぐがああああああああああっっっ!!!」
よくわからん雄叫びとともにブチッという音を立てて、ついに邪悪な乳当てが弾け飛んだ。
「よっしゃあああああああ!」
俺は戒めから解き放たれた勢いで、血塗れの両腕を思羽香の消えた砂地極へと突っ込み、上半身を潜り込ませていった……。
病棟中に、午後の気だるい雰囲気が充満している。ベッドに横たわった俺は両腕の包帯を眺めながら、溜息をついた。これじゃしばらく手淫船貿易は自粛だな。
「しかしよく生きて帰れましたね。自分は相変わらず爆睡していたんですがね、絶倫アクロバットおやじ!」
「ああ、あんな目に合っときながらよく無傷で済んだと、我ながら驚いているよ。
あの時浅尾って看護師が助けに来てくれなきゃ、夜中お外で放置プレイだったろうし。しかし山田看護師がまさかあんなことになるとはね……」
俺は僅か半日前の出来事を、遠い過去の出来事のように述懐した。
昨晩、思羽香が頸動脈をかき切って地中に没した後、助けようと半ばダイブしていた俺のもとに真っ先に駆けつけてくれたのは浅尾だった。
山田主任命令で半ば無理矢理休憩を取らされていたのだが、何時まで経っても山田が休憩室に交代に現れず、さすがに様子が変だと気付き、病棟を巡回して異変を察知したとのこと。
病棟の窓越しに、畑の隅で失神している高山茜と、血塗れの女医、そして犬神家状態の俺を発見した彼は、慌てて院内全ての手隙の夜勤職員を総動員し、俺たちの救助に当たった。
幸い高山は目覚めても欠片も抵抗せず大人しく病棟に戻り、女医も外傷は酷いが命に別状はなく、砂をかきわけ掘り起こされた俺と思羽香はすぐに手当てをされ、九死に一生を得た。
すぐに警察を呼ぼうとする浅野だったが、女医が止めた。あまり大事になってはいけないと判断したのだろう。
何があったのか浅野が問い質しても、口を濁して誤魔化そうと努めていた(ちなみに監視カメラのハードディスクは電源が落とされており、何も録画されていなかった)。
だが、思羽香に最も加担した山田主任看護師が病棟はおろか院内の何処にも姿が見当たらず、俄然緊張が高まった。
ちょうどそこに、天神病院に一番近いJRの地方線の踏切で、最終列車での人身事故が発生したとの情報が警察よりもたらされ、どうやらマグロは筋肉質の男性で、当病院の職員らしいとのことから、皆急に色めき立った。
確認の結果、遺体は間違いなく山田本人であると断定され、俺たちは徹夜を覚悟する羽目になった。