第百十一話 小さな奇跡
海からの風が少し強くなった気がする。凄まじい遅さで進む深層流に身を任せ、海の底でひたすら餌を待つ深海魚のように、俺たちはわずかに身体を震わせるのみだった。
「あのおぞましい家庭内殺人の前夜、彼女の入眠中に何者かが部屋に忍び込み、戸棚を漁っていた。
物音に気付いて目を覚ました奥村祖母は、すわ強盗かと驚いて、刺激してはならぬと息を潜めて寝たふりを敢行したが、犯人の頭髪のシルエットと姿恰好から、孫の奥村健二に違いないと判断し、何か探し物でもしに来たのか、あるいはこっそりおっぱいでも吸いに来たのだろうと安堵し、そのまま再び寝入ってしまった」
「いや、さすがに二十歳過ぎておばあちゃんのおっぱいは吸わないでしょ!」
「彼はけっこうおばあちゃん子だったらしいけどね。さて翌朝、戸棚の薬箱にセットしておいた当日分の処方薬が一錠だけ少ないように感じたが、寝起きのためあまり気にも留めず、内服したそうだ。そしてその晩惨劇が生じた」
「つまり奥村健二が祖母の抗パ薬を無断で拝借し、兄の伸一に飲ませ、幻覚妄想状態にさせたということ? でも、何のために……」
さっぱりわけがわからぬという風体の彼女に対し、俺は物分かりの悪い生徒に教える家庭教師の如く、優しい口調で説明を続けた。
「ルイス・ウェインを知っているあんたなら、健二の気持ちも理解出来るんじゃないか? 自分の幻覚や妄想を芸術作品にまで高める作家が世の中には数多く存在するんだろ?」
「ああ、そういうことか……彼は美大浪人を繰り返す兄のためになんとかしようと思い立ち、薬を使って幻視やら妄想やらを生じさせ、芸術的感性を引き出そうと目論んだってことか」
「おそらくな。有名美大の入試は絵が上手いぐらいでは通るわけもなく、絶対的な表現力や、独創的な想像力などが問われる難関だって、伸一祖母は話していた。通常の発想や能力では境界を飛び越えることなど到底出来ない」
「……なるほど。いわゆるLSD摂取によるサイケデリック・アートのような効力を期待したんだろう。兄を思うその行いは、仇となって彼に返って来たわけだな」
足元にポタポタと血の雫を滴らせながら、高峰先生がぼそぼそと呟く。
「そうです。そして俺が思うに、これをきっかけとして、呼び水の如く伸一の妄想や幻覚が誘発され、統合失調症を発症してしまったんだろう。
もちろん長年にわたる浪人や、弟殺害という絶大なストレスも原因の一つではあるだろうがな」
「……」
思羽香は呆然と立ち尽くしていた。今にも丘陵に覆い被さってきそうな広大な海をバックに、案山子の如く辛うじて身体を砂地に突き立てているかのようで、吹きすさぶ海風に飛ばされてしまいそうなほどか細く見えた。
「私は……私は、何のために、今まで……」
震えるような声はあまりにも小さく、耳をすまさねば聞き取れなかった。
「……なぁ、もう止めないか?」
俺は一呼吸置いて、彼女の後に続ける。
「あんたが恋人の敵を打ちたいという思いは、今までの話で痛いほどよくわかった。実際俺も同じ立場だったらそうしていたかもしれん。
だが、現実とは蓋を開ければこんなものなんだ。歯車がひとつ狂うと残る全てが音を立てて崩壊していく。良かれと思ってしたことが不幸を呼び、憎しみにかられて行ったことがとんでもない間違いだと後で気付くこともある。
今更取り返しはつかないけれど、これ以上人外の道を突き進んでも、何も得るものは無い」
「……私も砂浜君の意見に賛成だ」
最早口がどこにあるのかすらわからなくなったほど朱色に染まった高峰先生が、気力を振り絞って説得に加わる。
「……お前と部下が、ついでに看護師が何も言わなければ、今夜のことは無かったことにすると誓う。このまま病棟に戻り、日々の生活に戻ったらどうだ。
……別に私は自分の命が惜しくて言っている訳じゃない。ここで私を畑の肥やしにしても、どうせいつかばれる時が来るし、何しろお前の心に傷が増えるだろう。
気分変動は、心の嵐の夜には巨大な三角波となり、お前の安寧を奪い、生き地獄に押し留める。
……今こそ復讐の頸木から脱する時だ!」
「もう遅いんだよ、先生……もう私の手は汚れちまったんだよ」
炎の息吹のような俺と高峰先生の決死の言霊も、思羽香の閉ざされた氷の心を完全に溶かすことは叶わなかったのだろうか。
彼女は死人のような虚ろな瞳をしながらも、弱々しくぶつぶつと何事かを呟いていた。
その時、とても小さな奇跡が起こった。後々になって俺が思い返してみても、それは天使の気まぐれともいうべき奇跡以外の何物でもなかったのだが、とにかくそれが起こらなければ、俺たちの命の灯はシュレディンガーの猫の如く、灯ったままだったかかき消されていたか、誰にも分からなかっただろう。
海からの潮風に、不意に非常に鼻を刺す刺激臭が紛れ込み、一同に不快感をもたらした。
鼻のもげそうなその臭いは、しかし俺たちの良く知っているものだった。
近くの海水浴場の悪臭だ。ゴミ捨て場から漂ってくる、生ゴミや紙オムツなどの混ざり合った吐き気を催す臭気が、たまにここまで届くのだった。
「先生、ここから北に少し行ったところに海水浴場があるだろう。私と彼は、そこで恋に落ちたんだよ。
この場所を、全てに決着を付ける舞台に選んだのは、ここからそこが遠く拝めるからさ」
「そうだったのか……」
「先生、私に、否、健ちゃんの魂に誓ってくれ。もう決して私みたいな人間を造り出さないことを。意味、分かるよね?」
彼女は女医に向き直ると、これまでになく真剣身を帯びた口調で語りかけた。表情は陰になって読めないが、泣くのを堪えているように、一瞬俺には思われた。