第百十話 戒名って自分でつけてもいいのか……ペンネームみたいですね
「これだけ統合失調症の真似が上手だったあんたなら、他の精神疾患についてもよく調べたことだろう。そして疑問に思わなかったか?
何故、奥村伸一の病名は、あの事件を境に、うつ病から統合失調症へと切り替わったのかと。専門家じゃない俺でもここの患者たちを見ているだけでわかるが、前者と後者は全く異質な病気のカテゴリーだ」
「そ、それは……急に発症したんじゃないのかい、先生? 有り得ないことじゃないんだろう?」
これまで自信に満ち溢れていた思羽香の声が、瑞々しさを失い、徐々に萎れていく。俺は手応えを感じた。顔面血塗れの女医は、驚くべきことに、ひび割れた声を発した。
「……ああ、確かに、有り得ないことではないが、そう言われれば不自然だ。彼の主治医だった私だからこそ断言できるが、奥村伸一には、弟を殺すまで、妄想や幻覚症状は一切なかった。……むしろ薬が効いてきて、調子が良くなっていたんだよ」
「抗うつ薬の副作用ってわけじゃないのかい?」
「……副作用でたとえ怒りっぽくはなっても、あそこまで頑固な幻覚妄想状態を発症するとはそれこそ考えにくい。私は心の奥底でずっと違和感を覚えていたが……」
「もういいです、先生。後は俺が話します。今日彼の祖母と病棟ではち合わせた時、全てを悟りました」
「……」
俺たちを取り巻く時間が停止したかのように、全員が動きを止めていた。月光だけが変わらず冴え冴えと光を投げかけ、僅かな時の移ろいを律義に教えてくれた。
「……降参だよ、砂浜君。お婆ちゃんの明かしてくれた秘密を、私にも教えてくれないかい?」
永久氷壁に覆われた氷の女王のハートが溶け始めた。俺は慎重に言葉を選ぶ。どう伝えるのが一番効果的だ?
人間の心の最も柔らかい部分に響けば、人は自ずから虚心坦懐となる。それはすなわち、木漏れ日に包まれた懐かしい思い出。ここは一か八かだ。
「奥村健二が靴箱付近で読んでいた文庫本っていうのは、山田風太郎の作品じゃないのか?」
「どうしてそれを!?」
(やはり正解だったか……)
俺は内心胸をなでおろした。
「何、グランドマザーに彼の愛読書を尋ねたのさ。医者を志していた彼は、医師免許を持っている山風先生をえらくリスペクトしていたって伺ったんでな。彼はこっそりVシネマの『くノ一忍法帖』シリーズまで観てかなり後悔してました、なんて言ってたぞ」
「……まあ、あれってほぼ別物だしな」と高峰先生。
「でも、それのどこが統合失調症と関係あるのさ!?」
「まあ待て、話はこれからだ。彼はそれらの本の知識からあることを閃いた。戒名・風々院風々風々居士の死病となった疾患をご存知でござるか?」
俺は主治医を見習って、余裕に満ち溢れた態度で傲然と言い放つ。
「えーっと、確か……パーキンソン病だっけ?」
対する思羽香は先程までの名調子は何処へやら、自信無さげにおずおずと回答する。
逆に俺は、すべてのにわか知識を凝集し、説得力溢れる名文を脳内で組み立てた。えーっと、確かこの前の診察で高峰先生が仰るには……。
「むべなるかな、もとい、その通り。パーキンソン病は、中脳黒質のドーパミン神経細胞が減少し、神経伝達物質であるドーパミンが欠乏して、動きにくさや震えを引き起こす難病だ。
進行するにつれ寝たきりとなり、しかも根本的な治療法はまだ確立していない。
対処法として抗パーキンソン病薬を内服することぐらいが関の山だ。
医学知識に詳しい山田翁は、明らかに自分の死を悟っていたが、とりあえずその薬は飲んだ。だが、それがいけなかった」
「そうだ、思い出した! エッセイで読んだことあるよ。内服後に幻覚を見て暴れて、足を骨折したんじゃなかったっけ?」
我慢しきれなくなった思羽香が、話の途中で口を挟む。してやったり、と俺は内心ほくそ笑んだ。
こちらのペースに巻き込むことに、成功したのは明らかだ。試合は攻守逆転し、いまや我が手の内だった。
「よく知ってるじゃないか、さすが師匠。抗パーキンソン病薬にはドーパミンの受容体に作用し、ドーパミン不足を補うものがあるが、結局ドーパミンが増え過ぎるということは、幻覚妄想状態を起こしやすくなることでもあるんだ。まさに両刃の剣だな。
そして、そのドーパミン受容体作動薬を、パーキンソン病である、奥村祖母も処方されていた」
「確かに彼のお婆ちゃんは、病気が酷くなってお葬式にも参列できなかったって聞いたけど……」
「そこが味噌だよ。何故症状が悪化したのか? 彼女の薬を誰かがちょろまかし、こっそり服薬したのさ」
「!」
遂に明かされた俺の切り札に対し、思羽香が、隠すすべもなく、驚愕の表情を晒す。
そこには世俗を超越した占い師も、憎悪と怨念に満ちた女夜叉の顔も無く、ただの、ありのままの彼女本来の素顔があった。
「ドーパミンは人間の精神活動に携わる重要な神経伝達物質だが、ドーパミンが過剰になると、幻聴や幻視といった幻覚症状がおこり、興奮状態に陥ってしまうこともある。
そしてそれこそが統合失調症の原因だ。奥村のお婆さんは泣きながら俺にこう語った」
俺は、図書室で俺にひたすら謝り続ける老婆を思い出し、胸が一時的に詰まりそうになったが、先を続けた。




