第百九話 真実の扉
「そしてお前の復讐譚を締めくくるのは、私の謝罪の弁、というわけか。
この墓穴の前で恐怖に打ちひしがれた私が、惨めったらしく命乞いをし、泣いて謝るところが見たいと、そういうわけか」
あくまで強気の態度を変えない高峰先生は、峻険な冬山を思わせる雰囲気をその身に纏っていた。
「おや先生、やけに潔いじゃないか。まさにその通りだよ。
あの奥村伸一の野郎は、私が会った時は既に魂が妄想世界の桃源郷に遊離しちゃって、反省どころか事件の記憶すらあやふやだった。
でも女性に対する免疫は欠片も無かったんで、ちょっと粉をかけてやっただけで、盛りのついた雄犬みたいに尻尾を振ってすり寄ってきて、妄想の脳内嫁の顔までいつしか私とすり替わっていたよ。
だから私のいい加減な助言にも唯々諾々と従ったんだろうけど、本当に殺しがいが無かった。
だから代わって先生に全てを謝罪して欲しいのさ、もちろん私が心から納得できるようにね。万が一それが出来たら、私の気も変わるかもしれないけどねぇ」
まるで戦敗国家に巨額の賠償を請求する戦勝国家の如く、ありったけの誠意を見せろと言わんばかりの厚かましさだった。
俺は脳シナプスが発火する程神経回路を高速回転し、この危急存亡の時を乗り越える妙策を叩き出す。導き出された答えはただ一つ。
「先生、謝るべきです!」
「私が悪かった! ごめんなさい!」
絶世の美貌を誇る女医は、女王に傅く奴婢の如く膝を地面に付き、拘束されている手は突けないにしろ、頭を出来る限り下に曲げ、土下座に近い形を取った。
「あっははははははははは!」
思羽香が、腹がはじけ飛んだかのように呵々大笑した。身体をよじって、狼のように大口を開けて月に吠える。ひとしきり笑い終えて落ち着くと、再び高峰先生を見下ろし、嘆息した。
「まさか、たったそれだけで全てが終わったと勘違いしているんじゃないよね、先生?」
「ああ、さすがにそうは思っていない。確かに抗うつ薬の副作用をろくに知らず、愚かな間違いをしてしまったと、あの時からずっと私は臍をかむような毎日だった。もっと慎重にするべきだったと、後悔している。
これは嘘偽らざる真実だ。お前の手でこの場で葬ってくれてもいいかもしれないとも気持ちが傾いてしまう。
だが、この砂浜太郎君の命だけは許してやってくれないか。彼はあくまで無関係で、私に協力してくれただけなんだ」
「わかった。彼には別に恨みはないし、私の邪魔をせず、今夜のことを口外しないと約束しさえすれば、生かしておいてあげるよ。但し、先生は別だけどね……」
「!」
何時の間に握っていたのか、俺には気付かなかった。月の光を受け、思羽香の右手に鈍く光る銀色の物体は、処置室にあった医療用の……。
「止めろ、思羽香!」
「ね、姉さん! それはちょっと悪趣味じゃないかい!?」
俺と茜の叫び声も空しく、小刀によく似たメスが弧を描き、高峰先生の美しいかんばせを横殴りに走る。
「あっはははははは! どうだ、痛いかい? でも健二の味わった痛みはこんなもんじゃないんだよ!」
「……」
再び狂ったように笑う魔女に対し、顔面を切り裂かれた女医は気丈にもうめき声すら立てなかった。あまりの衝撃に俺も一言も発せられなかったが。
「これは健二の脳細胞の分! これは健二の頭皮の分! これは健二の毛髪の分! それ! それ! それ! もう一丁!」
リズムに乗って楽しげに振るわれる狂気の凶器は更なる斬撃を幾重にも放ち、たちまち端正だった女医の顔は、完成した千ピースのジグソ-パズルに拳を叩き付けた後に赤い絵の具をぶちまけたような惨状と化した。
「やめろおおおおおおおおおおおおおおお!」
たまらず俺は、返り血を浴びながらも絶叫した。もう嫌だ。こんな状況で生き延びても、まったくうれしくない。
「おやおや、私の邪魔をして、せっかく助かる命をむざむざ捨てようっていうのかい?」
血塗れのメスを持った思羽香の腕が、一旦止まる。今がチャンスだ。
「トイレに落ちている陰毛よりも軽い俺の命なんてどうでもいいよ! だがな、一つだけ知っておいて欲しいことがある。それだけは言わせてくれ!」
俺は腹にため込んだ虚勢を、ここぞとばかりに解き放つ。いよいよ正念場だ。ここからは、将棋の終盤戦のように、一手を誤るとそこですかさず命の投了となるだろう。
だが、これ以上思羽香に罪を重ねてほしくない。彼女に改心させるまでは、あたらこの身を散らすわけにはいかない。
全能力を出し切って、残虐非道な復讐鬼の心を溶かし、勝利をこの手に掴まねばならぬ。
「奥村健二を殺した原因は、彼自身でもあったんだよ!」
「!?」
未知の言語のように理解不能な俺の台詞に、思羽香の表情が再び硬化する。
俺は、俺のみが知っている真実の扉を押し開いた。