第百四話 大魔王からは逃げられないって言われても普通に逃げられたよね
「しかし何故、高山茜は私を襲ったんだ? なんらかの魂胆がありそうだったが」
「それは……」
俺はつい、女医に自分の推理を語りそうになったが、それよりも助けを求めることが先決だと思い直し、口を閉ざした。
もちろん病棟内で起きている患者達は、今の騒動を聞いているだろうが、果たして精神障害で入院中の彼らが、素直に手を貸して助けてくれるだろうか。
既に病棟全体は女占い師の魔の手に堕ちている可能性が極めて高い。女神は人々を支配し、女医を虐殺させようと仕向けているのだ。間違いない、今こそ断言できる。
「第二の贄」とは、紛れもない、高峰先生その人だ!
患者の誰一人として先程から俺たちを救出しようとはしない。それは当然と言えば当然のことだが、何か前もって言い含められているのかもしれない。
何が起こっても寝たふりをして、決して手を出すな、とかいうように。
まあ篠原なんかは事なかれ主義だし、言われなくても出てこないだろうけど。
背後の物音が、俺の思索を一時中断した。振り返るまでもない。俺と高峰先生は素早くナースセンター前のドアから離れる。
俺たちが通ってきたのとは違う廊下の方角から、ゆっくりと鈍重な足音が響いてきた。意表を突くため回り道してきたのかもしれない。
「先生、こっちです!」
「わかった!」
俺たち二人は高山の姿がデイルームに現れるよりも早く、隔離室へと延びる先程の道へと再突入した。迷っている暇は無い。
「先生、何処へ行くんですかー!?」
高山の張り上げる胴間声が後ろから追いかけて来るが、俺たちが足を止めることは、勿論無かった。
戦場となった女子トイレの角をドリフト気味に曲がり、闇が重くわだかまる隔離室の並ぶ棟へと至る。希望はあった、極僅かだが。
「お願いだ、今度こそ開いてくれ……」
とある鉄扉の前に立った女医は、右手に握りしめたままのマスターキーを鍵穴へと忍び込ませ、期待を込めて時計回りに回す。
カチャッとタンブラーが動いた音が確かに小さく響き、シリンダー錠が解除されたのを確認し、俺と先生は胸をなでおろすと同時に、素早く入室した。
予想通り、コントロールパネルをいじくった犯人は、隔離室の扉までは電子ロックを施していなかった。
このドアの向こうは行き止まりであり、籠城しようにも中から鍵を掛けることは不可能なので、まさかここに獲物が逃げ込むとは想像だにしなかったのであろう。
「まったく、海野を隔離解除しておいてよかったよ。一つだけ隔離室が空っぽで助かったわ。
ここに隠れてあの暴走人間ブルドーザーをやり過ごそうって寸法だろ、砂浜君?」
暗がりの中、女医がにやりとほくそ笑む。
「その通りですが、あくまで一時しのぎです。とりあえず今のうちに、今後の作戦を練りましょう。すぐに見つかる可能性が高いですし」
「うむ、そうだな。隔離室は、鉄格子の方には食事などの出し入れ用の小さな扉しかついていないし、脱出は不可能だから、結局入ってきた鉄扉しか出入り口はないが、ここでいつまでも籠城できるとも思えんしな」
「病棟の窓ガラスを割るってのはどうです?」
「そいつは無理な相談だ。以前窓ガラスを取り換えた時、院長が突然椅子を振り上げ窓をかち割って、『割れるじゃないですか』と業者に文句を吐いたという逸話があるが、つまりそれ以上の衝撃に耐え得る防弾ガラス並の強度で作られているため、いかなる暴力行為でも破壊不能だろう」
「さ、さいですか……」
俺は冷や汗をかいた。なんちゅー世界じゃ。
その時、ドシドシという足音が室外から伝わってきたため、俺たちは共に口を噤んだ。
大丈夫だ。逃げ込むところは見られていない。静かにしていれば気付かれることはないだろう、と自分に言い聞かせるものの、心臓はバクバク状態で、鼓動が外に漏れ聞こえるのではと心配になりそうなほどだった。
地響きのごとき重々しいステップは、ドアの前を通り過ぎ、ゆっくりと遠ざかっていく。
俺は、刑務員からの死刑執行の知らせを受けずにホッとした、獄中の死刑囚の気持ちがよくわかった。
「やれやれ、シザーマンも真っ青のモンスターだな、あの怪物女は」
女医が、安堵の溜息と一緒に、医者にあるまじき台詞を吐き捨てる。それって登場人物がロリコンばっかのホラーゲームって篠原がほざいていたけど……。
「それでですね……」
俺が参報を気取って次なる作戦を立案しようとした時である。背後から隙間風が吹いてきたため、俺は即座に凍り付いた。バックにあるのはドアしかない。
「た、太郎、後ろ後ろーっ!」
「わかってますって!」
高峰医師の甲高い声と同時に振り向くと、隔離室のドアが外側から引っ張られ、キ○ィちゃんパンツを被った高山茜の下卑た笑みが隙間から覗いていた。ジーザス!
「ごぶあ!」
次の瞬間、ゴキブリの表皮並に汚いデス乳首が隙間に差し込まれたかと思うと、白い粘着質の液体が俺と女医に浴びせかけられ、二人とも蜘蛛の糸に絡め取られた羽虫のように、行動不能に陥った。
やっぱり甘くて嫌だよこれ! てか、もしこいつに赤ん坊産まれたらミルク飲んで即窒息死するよ!
「よくやった、茜。ご苦労様」
おぞましい粘液の下でもがく俺の耳に、聞きなれた懐かしい声が染み渡る。まさに隔離室にいた時、孤独を慰め、力づけてくれた声が。
「思羽香師匠!」