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第百一話 復讐の女神

「あれは、確か……」


 上品な萌木色の女性用スーツを着た、病棟の廊下をちょこちょこ歩く、くの字どころかつの字に腰のひん曲がった老婆……忘れもしない、奥村伸一の祖母だ!


「な……なんでここに!?」


 早くも禁を破って呟いてしまうが、ちょっと考えると、別段何も不思議はなかった。


 病棟では、たまに亡くなった患者の家族がやってきては、荷物の引き取りや、最後の挨拶を病棟スタッフにすることがあると聞いたことがある。おそらく彼女もそういった目的で来院したのだろう。


「そういえば、この前、立ち去るときに何か言っていたような……」


 少しでも問題解決の手がかりになればと、俺は老婆の後ろ姿を眺めながら、脳内情報を急いでサーチした。伸一に対し、あの時彼女が呟いた台詞は……。


「ごめんなさいね、私のせいで……」


 思い出した瞬間、俺は半ば無意識にドアを開け、老女に向かってダッシュした。


 これは千載一遇のチャンスだ。この人物は明らかに事件に関して何かの鍵を握っている。それがなんだかはまだわからないが、この機会を逃しては、多分二度と知り得ることは出来ないだろう。


 俺の探偵の勘ともいうべきものが、そう心の中で喚き立て、行動を後押しした。



「ちょっとすいません、奥村伸一さんのお婆さんですね?」


 彼女のそばまで追いついた俺は、即座に息を整えると、なるべく平静を装って、彼女に礼儀正しく話しかけた。大丈夫、回りに人の姿はない。


「はぁ、そうですけど……どちら様ですか?」


 白髪頭の老婆はぜんまい人形のようにピタッと歩みを止め、のろのろとこちらに振り返った。


 皺だらけのしなびた胡瓜みたいな顔はまるで能面で、表情がまったく読み取れない。


「俺は、伸一さんの同室者だった砂浜という者で、彼によくお世話になっていたんです。この前伸一さんと一緒のお姿を拝見したので、もしやと思ったんですが、今までのお礼が言いたくって、つい……」


 やや緊張しながらも、言葉を選びながら、慎重に挨拶していく。少なくとも嘘は言っていないつもりだ。


「おや、そうでしたか。あの子にこんなお友達が……こちらこそ生前はありがとうございます。それにしても変わったお名前ですね」


 老婆は床に頭がつきそうなくらい深々と頭を下げた。名前の件は余計なお世話だが、転ばないか心配になってくる。それにしてもいつか改名したいな。


「実は、彼の死体を最初に発見したのも自分なんですよ。ただ、そのせいかいろいろと痛くもない腹を探られて、結構辛い目にあっていまして……」


 ここからは嘘八百を並べ立てる。だが仕方がない。彼女の同情を惹いて、情報を聞き出すためだ。


「あらまあ、それは誠にすみませんね。私の孫のせいで、そんなご迷惑をおかけしているとはつゆ知らず……」


「い、いえ、そんな謝らないで下さい! もったいない!」


 老婆の体勢がどんどん土下座にまで近づいたため、俺は思わず手を伸ばして、彼女を抱きとめていた。


「それでですね、自分なりに彼の死について頭をひねってみたんですが、ちょっとばかりおうちの方からもお話を聞けたらと思いまして、お忙しいところ悪いですけれど、お願いできませんか?」


 最大級の営業スマイルを顔面に貼り付け、俺は揉み手をせんばかりに老女に迫った。


「はぁ、まあ私は一向に構いませんが、そういうことでしたら病院の先生の承諾を得てからの方がよろしいのでは……?」


「大丈夫です、許可はすでに貰ってあります(嘘)! それよりも、こんなところではなんですから、どうぞこちらにお入りください」


 仮面様顔貌のまま躊躇する老婆の手を引いて、俺は足早に廊下を移動し、先程の図書室にすべりこんだ。



 黒洞々たる深夜の闇の中で、人知れず海野思羽香はほくそ笑んだ。


 遂に準備は整った。思えばここまで来るのは決して平坦な道のりではなかった。知識と技術と忍耐と労力と、そして何よりも運を必要とした。


 初めはこんなこと実際に出来るわけがないと半ば思っていた。しかし蓋を開けてみればそんな考えは杞憂に終わり、計画は着々と進行しつつある、それも恐ろしいくらい順調に。


 後は予定通り第二の贄が彼女の胃の腑に収まれば全ての決着はつき、あの運命の日より、北陸の冬空よりも暗澹たる有様だった心に、一条の光が差し込むことだろう。


 下僕のあの女には、嫌というくらい恩と忠誠と恐怖を叩き込んだ。恐らく彼女の命令には、どんなことであろうと逆らえない筈だ。


 それ以外にも手駒はいるし、この病棟で何が起ころうと大多数の者は見て見ぬふりをするだろう。


 そう、失敗する可能性など滄海の一粟ほどもなく、心配するのは愚かなことだ。今は坐したままどんと大きく構えて、審判の時を待てばよい。


 コツコツという夜回りの靴音が、固い枕越しに思羽香の頭蓋に直接響く。すぐさま彼女は呼吸を深くし、瞼を閉じる。看護師の気配が近付き、徐々に遠ざかって行く。


 もう少しの辛抱だ。それで宿願を果たせる。もしそうなったら彼女はもう自分自身がどうなろうと構わない。それこそ喜んでこの身体を、神の生贄にでも悪魔の供物にでも何でも捧げるだろう。


 そう微笑む彼女の姿は、既に、漆黒の肌と蛇の髪の毛と蝙蝠の翼を有し鋲の打たれた青銅の鞭を振るう、復讐の女神エリーニュスそのものと化していた。その血塗れの鞭の先には、皮膚が剥がれた、見るも無残な……。



「うわあああああああああ!」


 俺は、ベッドから飛び起きた。

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