第九十九話 あと一話で百話ですか……思えば遠くへ来たもんだ(しみじみ)
「そうか、こうすれば、奥村伸一を自殺に見せかけて、トイレに誘導して死なせることができるぞ!」
俺は、誰もその場にいないのを幸い、つい口に出して叫んでしまった。難しい数学の問題を解いた時の歓喜の感情とは、このような気分を言うのであろうか。
身体は興奮に打ち震え、いつの間にか占い本を破りそうなほど握りしめていた。爺の仏像舐め舐め事件を解決した時は凄まじい不快感しかなかったが、さすがに今回は質が違った。
しかし、やや落ち着き、まだ問題が山積していることに思い至ると、手放しには喜べないことが理解できた。
まず、俺の想像通りのやり方だと、犯人は一切証拠を残していないはずだから、摘発することができない。死者を蘇生して話を聞かない限り、不可能だ。
また、犯人……ぶっちゃけ海野思羽香は、既に次の殺人予告を行っている。彼女が伸一に恨みがあるのは仕方がないとして、他にいったい誰を殺したいほど憎んでいるというのだ? 俺の貧弱な推理能力では、さっぱり見当がつかない。
「どちらにせよ、これ以上の凶行は防がねば……」
俺の心に、新たな思いの火花が着火した。最初はごく小さな炎だったが、次第にメラメラと燃え盛り、紅蓮の大渦巻となって胸中全体に燃え盛った。
たとえ師匠が人殺しだったとしても、俺が彼女を慕う気持ちに変わりがないことが、自分でもよくわかった。
彼女には、右も左もわからぬ自分にここでの生活の術を教えてもらった恩義があるし、なにより理屈ではなく心の底から惹かれ、理では割り切れぬ思いに、俺はすでに支配されていた。
それこそ好きな人を無残に殺されて、相手を憎悪しない人間なんぞ存在しない。だから今回の殺人は、世の中の倫理や法律などはどうでもよく、俺の中では真っ当な正義だった。
だが、その先に踏み込むことは、修羅の道である。人間に戻れなくなる。奥村伸一は殺人犯であるから殺されても文句は言えないが、たとえ共犯者がいたにしても、直接手を下したわけでなければ、そいつの命まで奪うのは筋違いだ。
これは単なる俺の中の独りよがりな哲学に過ぎないが、だからこそ大切にしたかった。
「考えろ……推理するんだ。彼女の第二の標的とは、いったい誰だ?」
俺は必至で頭脳をフル回転し、考察を押し進めた。そもそもあんな人目に付く場所に告知するということは、師匠は次なる贄に対し、宣戦布告の目的で行ったのかもしれない。
ということは、その相手の人物とは、この病棟内に存在する可能性が高い。ここでの情報が他に漏れることはほとんど無いだろうし、そう考えるのが自然だ。
「誰だ……彼女が憎悪するのは、誰なんだ?」
圧搾機でギリギリとブレスされる果実の如く、あるいはマンモグラフィーで押し潰されるおっぱいの如く、俺は脳みそを振り絞った。奥村健二の死に関与し、この場にいる人間とは……ただ一人しかいない。
「まさか!」
俺は再び驚愕するとともに惑乱した。またもや蒙が啓かれ、ぼやけていた視界が、眼鏡の調節がうまくいって焦点がぴったり合ったかのように、くっきりと目に映る快感を覚えたが、心の受けたダメージは大きかった。
どうやら海野思羽香の恨みは、その名のとおり海よりも深く、絶望は計り知れないのかもしれない。
「だけど、どうやったら彼女の暴走を止められるっていうんだよ……」
今や俺の独り言は危険人物レベルにまでなっていた。自分でもわかっているんだが、あまりの事実に感情がコントロールできず、独語の奔流を抑えられなかった。
所詮、俺は閉鎖病棟に措置入院中の一患者にしか過ぎず、何の力も持っていない。その事実がこれほど恨めしいと思ったのは初めてだった。何とかしたくても、自分では何一つすることができない。無力感をひしひしと味わい、己が腹立たしかった。
だからといって、今までの推測を高峰先生に全てぶちまけ協力を仰ぐのは、抵抗があった。もしそうすれば、確かに今後の思羽香の殺人計画は阻止できるかもしれない。しかし、それと同時に、彼女のここでの待遇が、非常に厳しいものになるだろうということが予想された。
もしかしたら金輪際退院などできなくなるかもしれないし、それはあまりにも気の毒だ。いくら密偵を申し付けられたからと言って、そんなことは自分としてはとてもできない相談だった。
なんとか医療サイドに知られずに全てをひた隠し、彼女が何か事を起こす前に、自分が命がけで説得し、改心させて犯罪防止する……。
「どんな無理ゲーだよそりゃああああああ!」
いかん、ついまた怒鳴ってしまった。ちょっと口を物理的につぐんでいた方がいいのかもしれん。さすがに俺も反省して、誰かいなかったか確かめるため、ドアの小窓から外を眺めた。
「!」
なんとそこに、俺は想定外の人物を見かけた。