第三話
僕は明日にある二学期最後のテストのために勉強していた。ただひたすらに問題を解いていく。勉強してもいつも中の中くらいだが、やらないと下の中くらいになってしまうので嫌でも勉強しなくてはならない。
長い間、頭を抱えて数学の一問を考えていた時だった。
「……それは、三角形の高さが面積の比になるんです」
「……わっ」
小さな声で、僕に取り憑いている女の怨霊が喋った。彼女は机の上にある問題集を見つめていた。やがて僕の視線に気づいて、顔をこちらに向ける。視線が重なった。すぐに逸らされて、跡形もなく消えた。
答えを確認すると確かにその考え方が正しいようだった。なぜ教えてくれたのだろうか。僕はまた頭を抱えた。
呼鈴が鳴り終わると、教室は緊張感のある静けさに包まれていた。教師が一番前の席にテストの用紙を置いていく。受け取られて後ろに回される。前の席の安西は一瞥もせずに、僕に用紙を飛ばすように渡した。床に落ちそうになって慌てて掴もうとする。しかし、間に合いそうにない。そう思った時、用紙は途中で何かにぶつかったように止まってゆらゆらと僕の机に落ちた。しばらく何が起こったのかわからず固まっていた。我に返って、後ろを向いて渡そうとすると、あからさまに嫌な顔をされた。渡すのが遅いと言いたげだった。悪いことをしたと感じながらも前を向いた。
テストが始まってしばらくたつ。半分ほどしか解けずに焦っていた。ふと時計を確認しようと顔を上げると、目の前に僕に取り憑く女の怨霊がいた。驚いて声をあげそうになったが、人差し指を立てて、口元にそっと当てている彼女を見て堪えた。よくよく見ると、整った顔立ちをしていて、小さな顔だった。彼女は黙って僕を見ている。そんな彼女を可愛らしいと感じてしまう自分がいた。
「先に言っときますけど、私の声は周りに聞こえませんし、姿も見えません。後大問一の二問目、間違ってますよ。それから大問ニの三問目と四問目と五問目、単位つけなくていいんですか?他にも間違ってるところありますから、答えを言います」
僕は彼女の言うことに戸惑っていた。かまわずに彼女は続ける。
「大問一の二問目は3x、大問ニはメートルつけてください。大問三の一問目は……」
機転を利かして用紙にペンを走らせると、彼女の声はしぼんでいった。大丈夫、と一言書いた。顔を上げると彼女は不思議そうに僕を見ている。やがて黙って姿を消した。姿を消す直前、彼女は少し落ち込んでいたような気がした。
テストが全て無事に終わって下校し、僕は自室のベッドでくつろいでいた。
「さっきはすいません」
突然声がした。足を地につけて立っている彼女がいた。
「私の大きなお世話でした。あなたは、そういうことをする人ではないですから……」
彼女は下に俯きながら、消えそうな声を出した。落ち込んでいたように感じたのは気のせいではなかったようだった。
「い、いや、別にいいんだって。全然、気にしないでいい、と思う」
自分でも何を言っているのかわからないが、途切れ途切れに話した。まだ少しだけ怯えている自分がいる。しかし、今の彼女は怯えられるような存在ではないと思った。
「……わかりました……」
また消えそうな声を出した。まだ落ち込んでいるのだろうか。ここで、川澄さんから彼女に関わるなと言われていたことを思い出した。会話してよかったのだろうか。見る限り、悪い人……怨霊には見えない。
「えっと、なんで教えてくれたの?」
「それは、暇だからです」
途端に凛として答えた。
「………?そう」
ここで会話が途切れた。しばらく沈黙が続いた。
しばらくして、彼女は口を開いた。
「寺の娘から私に関わるなと言われていましたが、私と喋っていいんですか?」
「……僕には、悪い人には……悪い怨霊には見えないから、喋っていいと思う」
「……そうですか」
そう言う彼女は少し嬉しそうだった。彼女は感情がすぐ顔に出るタイプのようだ。それでも、なぜ嬉しそうなのかはわからなかった。
「私のことは、雪と呼んでください」
「えっと、雪は……」
聞きたいことがたくさんありすぎて、上手く出てこない。彼女はなぜか頬を赤く染めて、虚空の一点を見つめていた。
「どうやって生まれた?」
「……あ、えっと、気づいて目を開けたら、道路の真ん中にいました。その時にも一般的な常識はあったんです。自分の名前も知っていました。でもそれまでの記憶はなかったです。今も」
「そうなんだ」
怨霊というくらいだから、交通事故で亡くなった亡霊みたいなものなんだろうか。
「それから当てもなく辺りを彷徨ってました。色んな人を見てきました。親友を裏切る人、ギャンブルで人生を狂わせる人、子供を虐待する人。そして、私はどうしてここにいるのか、そんなことをずっと考えていました。そんな時に……」
僕の方を見て、すぐに逸らした。なんでもないです、とだけ言った。言いたくないことだったのかもしれない。
「私は、とにかく生きる……生きているのかわかりませんけど……中での楽しみを見つけました!」
目を輝かせて、こちらを向いて言った。
「それは良かった」
「はい!」
「それは……何?」
「えっと……、た、魂を食べること?ですか」
「えっ」
「嘘です、冗談ですから、本当に」
本当に焦った様子の雪をみて笑ってしまった。
「もう……」
彼女は怒っているようでいて、嬉しそうでもあった。
「あれ、でもこの前、怯えさせて魂を食べるとかなんとか言ってたような」
「あれは……その、き、気が変わったんです。今は魂を食べようとは思いません。私は……あなたが……」
途中から何を言っているのか聞き取れなかった。
「とにかく!これからよろしくお願いします」
彼女は手を差し出した。
「う、うん、よろしく」
僕は彼女の手を恐る恐る握った。
彼女の手はひんやりとしていて気持ち良かった。