かき氷
彼は、いつも、ぼうっとしている。
わざとだか、ただの不精なのかわからないけれど、いつも、微妙な長さで、ひげを伸ばしてる。
彼は、いったい、今、何の仕事をやっている人間なのかは、よくわからない。
いつも、家にいるかと思うと、数日間、留守にすることもある。
彼に出会ったのは、ひょんなことが、きっかけだった。
悪いことは、立て続けに起きることがある。
私は、失恋した。
しかも、元恋人が、私の次に選んだのは、私の親友だった。
おまけに、私は大学院を卒業した後、就職できないでいた。
はっきり言って、最低だった。
その日も、私は、だいぶ、慣れない、お酒を飲んで酔っていた。
夜中、誰もいない駅で、わたしは、ひとり、座っていて、遠くから、光が見えた。
それは、救いの光のような気がした。何もかも、忘れられる救いの光。
「死神……」
その声で、私は我に返った。電車が、通り過ぎ、私は、尻餅をついた。
彼は、へたり込んでいる、私に手を差し出した。
私は、途端に気持ち悪くなって、嘔吐した。それから後は、よく覚えていない。
気がついたら、散らかったアパートの一室に寝かされていた。
ふと、ベランダの方を見ると、遠くを眺めながら、彼は、煙草を吸っていた。
それから、幸運なことに、仕事が見つかり、私は、なんとか、持ち直すことができた。
それでも、私は、ときどき、彼の部屋を訪れた。
一応、覚悟はして、部屋を訪れるのだが、彼は、何を要求するでもない。
デートに誘ってくれるわけでもない。ただ、そこにいるだけで、いつも、年を取った猫のように、ぼんやりとしている。
それだけで、不思議なことに、彼の周りには、穏やかな空間ができていた。
彼は、自分のことを、あまり言わないので、私は、幾つか、聞いてみたりした。
彼は、彼女を作るつもりはないと言った。
彼の家系は遺伝的な、なんとか言う病気が出る可能性があるとかで、家族を持つ気もないと言った。
彼は、ときどき、話をすることがある。正確には、物語と言ったほうがいいかもしれない。
どこで聞いてきたのか、彼は、直接見てきたように話をする。
その日も、私は、疲れていて、つい仕事の愚痴を言ってしまった。
「子どもを無視したり、虐待したりする母親っているわよね。知識としては、わかるのだけど、実感としては、どうしても、その気持ちがわからなくて……」
「カウンセラーが、外部の人間に、そんなことを言っていいの?」
彼は、煙草の煙を吐き出すと言った。
私が、黙っていると、彼は話をしはじめた。
「そういう親の存在というのも、今に始まったことではないよ。
そう、もう、五十年以上も昔、戦前にあった出来事なんだけど、こんな話を知っている……これは、二人の女の子の話だ……」
彼は、話をしはじめた。
「ある旧制女学校の若い男の先生が、女学生を妊娠させてしまった。確か、女学生の歳は、当時、十六か十七だったと思う。
いろいろ面倒なこともあったのだが、その女学生は、先生の妻に迎えられることになった。
そして、その女学生は女の子を生んだ。
昔のことだから、その後も兄弟姉妹は、たくさん生まれた。
そして、その一番上の女の子は、当然、幼い兄弟姉妹の面倒をみさせられた。
なぜか、彼女は、母親から、意味もなく、つらく当たられることが多かったそうだが、彼女は黙って、よく働いていた。 ある日、物凄く暑い、夏の日のことだ。
彼女は、幼い一番下の弟を背負って子守りをしていた。
その日は、セミが、よく鳴いていて、日陰にいても、じりじりと暑かった。彼女は、喉が乾いていた。
氷。
彼女は、一度でいいから、かき氷というものを食べてみたくなった。甘くて冷たい、かき氷。
彼女は、歩き出した。
彼女の母親は、何人かの、幼い兄弟姉妹を連れて、近所に買い物に行っているはずだった。
『お願いだから、一度でいいから、かき氷を食べさせて……』
そう言うつもりだった。
それは、偶然だった。
彼女が、一件の甘味処を通りかかったとき、開いた戸から、店の中が見えた。母親と幼い兄弟姉妹たちがいた。
母親と幼い兄弟姉妹たちは、笑いながら、かき氷を食べていた。母親は、彼女の前では見せたこともない暖かい顔で笑っていた。
彼女は、一瞬、セミの声も、照り付ける暑さも、忘れた。
すべての世界が、止まったような気がした。
彼女は、走って、家に帰った。
母親も、付いていった兄弟姉妹も、家に帰ってきてから、一言も、かき氷のことは言わなかった。
もちろん、彼女の方も、かき氷のことを言い出すことは、できなかった……」
私は、息を飲んだ。
完全に公平だった、というわけにはいかなかったが、私の両親は、私と姉を公平に扱おうと努力していたと思う。
それよりも、何よりも、ここにいても、大丈夫だ、という、安心感のようなものを、両親の中から、私は、感じることができていた。
その安心感が、まったくない状態など、私は、まったく、実感できないでいた。
今の話、たった一つの場面の話だったにもかかわらず、その母親と女の子の間に流れていたものは、何だったのか……。
それは、刺されるほど冷たく痛いもの。
そして、毎日、彼女の魂は、恐ろしい冷気にさらされる。ひんやりとした冷気は、徐々の彼女の魂を包み込んでいったのではないだろうか。
そして、それが、ずっと続いていったとき、彼女の魂には、何が刻まれたことだろう。
「実の親にすら、愛されない子どもというのが、昔から、ほんとうにいたのね。
母親にすら、愛されないのなら、その子の魂は、いったいどこに行ったらいいの?」
彼は表情を変えずに、黙っていた。
私は、はっとした。彼は、確か、二人の女の子の話、と言ったはずだ。
「その子は、確かにかわいそうだ。子どもは、心を成長させるためには、親に愛される必要がある。そうでないと、傷ついた子どもの心を抱えたまま大人になってしまうことがある。しかし、親も人間なんだ。生きていれば、いろいろな事がある。どうしても、我が子なのに、愛せないことだってあるんだよ……」
当時、結婚もしていないのに、それも、女学生が妊娠したとなれば、周囲にどれだけ、白い目で見られたことだろう。
そして、まだ、年端もいかない妊娠してしまった女の子は、何を思っただろう。
――この子さえいなければ……
母親も、また、重過ぎる問題を抱え、癒されない心を抱えた、一人の女の子だったのではないか……。
彼は、最後に言った。
――さまよえる魂を救う、ちっちゃな魔法は存在するだろうか?――
また、私の所に、子どもを虐待してしまう若い母親が、回されてきた。
「可愛がらなきゃいけないってわかってるんですけど、どうしても、かっとなってしまうんです。そして、美咲を叩いてしまうんです。
いけないってわかってるんだけど……このまま、行くと、美咲を殺してしまうんじゃないかって、自分でも、恐くなって……」
「自分の子どもでも、どうしても、可愛く思えないときもありますよね。母親だって、いろいろなことを抱えた人間ですもの……神様じゃないですもの……」
若い母親は、うつむき、震え、泣き出した。
「愛さなきゃいけないって、わかってるけど、 愛せないんです。先生の言われる通りです。
愛さなきゃいけないけど、どうしたらいいか、私には、わからない……。
だって、私の母は、私に冷たかった! まるで、私が、捨て子だったみたいに……。
愛するって、いったい、どうすればいいんですか?」
――愛するって、いったい、どうすればいいんですか?――
この言葉が、私の中で、重く響いた。私は、この母親の中でも、静かにメビウスの輪が 続いているのを感じた。私は、彼の言葉を思い出した。
――さまよえる魂を癒す、ちっちゃな魔法は存在するだろうか?――
(この作品はフィクションです)