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2、 金の星 (1)


 

 2、 金の星


 皇帝の不在に首都周辺の住人のほとんどが目にした異変。その後、数度に亘りこの事象について(カルパ)が執り行われたが結果はすべて芳しくなく、人々の心に芽生えた不安は薄れるどころか日に日に大きくなっていくのだった。その矛先は誰も口にはしないが一様に不在の皇帝へと向けられていた。(いにしえ)からあまたの世界の中心とされてきた(クスコ)を見放し、母君の故郷である暖かな北の地で安閑と暮らす皇帝。もちろん首都の異変と(カルパ)による神託は、即刻北の都に伝えられていたのだが、皇帝と皇帝の有する軍隊は、たびたび反乱を起こす北方民族の監視が優先であるとし都に戻る気配を見せない。表立って非難することはできないものの、貴族の中には夜陰に紛れて集い、都を放棄した皇帝はもはや皇帝(サパ・インカ)に在らずと、現皇帝とその後継者とされる皇子の失脚を画策する動きも現れ始めていた。


 不穏な都の空気はクイの住む片田舎までは届かなかった。屋敷の何人かは(くだん)の月を直接目にし、「不気味だ」とか「天変地異の前触れでは」などと噂し合ったが、それが国の最高神官によって『凶兆』と宣言され一大事になっていることなど思いもしなかった。

 クイは相変わらず壁磨きに精を出していた。クッシリュが顔を見せなくなってもう何年になるだろうか。いつかは戦士となって北の皇帝軍に入ることを夢みていた彼だから、大方その夢を叶えるために北へ引っ越していったのだろう。当初は挨拶もなしに姿をくらましたクッシリュに憤りを感じなかったわけではないが、クッシリュとの出会いそのものが幼い時分の好奇心から生まれたものであり成長と共に消える関係だったのだろうと割り切った。

 クイは十二歳ほどになっていた。曖昧なのは正確に年を数える慣習がこの国には無い為であるが十二歳というのはちょうど思春期に入る少し手前というくらいだ。そして身体は大人へと変化を遂げる過渡期である。クイの日常は相変わらずだった。けれどその『変化』はすぐそこまで迫っていたのである。


 あるとき、何時ものように朝早くから壁の砂を念入りにこそぎ落としていると、ずんと腰に鈍い痛みを感じた。中腰の姿勢のまま何刻も同じところを磨き続けていたからかもしれない。クイは作業を止めてゆっくりと背中を伸ばした。少し腕を上げて伸びをしてみようと思った瞬間、下腹に鋭い痛みが走りクイは腹を抱えて蹲った。額に脂汗が滲み息遣いが荒くなる。少しでも動いたら腹が引き裂かれてしまうのではないかという恐怖でクイは何刻もその姿勢のまま動けないでいた。


「今日はやけに遅いな」

 厨房のパパリャがすっかり冷えたスープと固くなった干し芋を眺めながら溜め息を吐いたとき、がたんと何かが倒れる音と足を引き摺る音を聞いて厨房の入り口を振り返った。

「クイ!」

 入り口の脇にクイが座り込んでいた。額に大粒の汗が噴き出て苦しそうに息をしている。

「どうしたんだい」

「お腹が、お腹がいたい」

「なんだって! 何時(いつ)からだい」

「さっき……急に。少し良くなったと思ったら、また」

 ふうとゆっくり息を吐き出して何とか痛みを堪えようとしているが、立ち上がるのは難儀なようだ。パパリャは何とかクイを楽にしてやろうと彼女の傍にしゃがみこんでそっと腹を擦った。しばらくそうしているとクイの顔がだんだんと穏やかになり汗も引いてきた。

「……落ち着いたみたい。でもまだお腹の底に石でもあるみたいに重い」

 言われてパパリャははっとする。

「クイ、もしかして……。ちょっとスカートの中を覗くよ」

 クイのスカートの裾を少したくし上げ白い腿の辺りを覗いたパパリャはすべてを納得して笑顔になった。

「病気じゃないよクイ。でもそのままにしておくわけにはいかない。あたしが付いていってやるから奥様のところに行くんだ」

 それを聞いてクイは目を剥き、激しく首を横に振った。

「嫌よ! 病気じゃないなら伯母さまのところへ行く必要なんてないじゃない!」

 パパリャは怯えるクイを宥めようと肩を優しく擦りながら説明する。

「病気じゃないけど大事なことなんだ。でもとっても嬉しいことなんだよ。奥様だってお喜びになるさ。大丈夫、あたしがちゃんと奥様に説明するから」

 それならばいま自分に説明してくれればいいものをとクイは思ったが、唯一の頼みであるパパリャに抗ってふたたび痛みが襲ってきたとき、ひとりではどうしていいのか分からない。仕方なくクイはパパリャの言うことに従うことにした。

「その前にとりあえずの手当てをしておこうね」

 パパリャは厨房の奥に引っ込み清潔な(さらし)を手に戻ってきた。

「厨房で使うものだけど、新しい物だから大丈夫だろう」

 そう言ってクイのスカートをたくし上げ下腹から尻の辺りに巻きつける。クイはパパリャの手当ての意味がまったく分からなかったが、これで楽になるならとおとなしくされるがままにしていた。


 支度を終えるとパパリャはクイの身体をしっかりと支えて屋敷の奥へと進んでいった。本来なら飯炊き娘が勝手に入れる場所ではないのだが、クイを連れていることですれ違う使用人たちは見て見ぬ振りをする。陰では『壁磨きしか能のない娘』と揶揄されていてもクイの身分が認められている証拠だ。クイは、あるいはこの屋敷の女主人よりもずっと地位の高い人物なのかもしれない。使用人たちがあまり彼女に接したがらないのは彼女を蔑んでいるからではなく、彼女の身分の高さを畏れているのだ。パパリャは改めてそのことを実感した。


 屋敷の最も奥まったところに小さな部屋がある。中庭からその部屋に向かう道筋には両脇に色鮮やかな花が植えられて蝶や羽虫が舞っている。外壁に絡まる蔓草にも目の醒めるような鮮やかな色の花がいくつも付いていて花の中の小部屋といったところだ。気難しい女主人がほぼ一日を過ごすその部屋はとても居心地が良さそうだ。

 クイがこの部屋までやってくることは滅多に無かった。滅多にどころか此処に来たのは、初めてこの家にやってきたほんの幼い頃と、二度ほど都からクイへと荷物が送られてきたときのみである。荷物というのはクイの成長に合わせた大きさの新しい服だったが、荷は部屋の入り口に無造作に置かれており、「早くそれを自分の部屋に持っておいき」と伯母が奥のほうから声を掛けたのでクイは部屋の中に入ることも叶わずそそくさと荷物を持ち帰ったのだった。

 クイは、伯母がこの部屋に呼ぶときにはいつも不機嫌だったことを思い出し、入り口が近づくに連れて表情を強張らせた。治まっていた腹の痛みもまた蘇ってきそうだ。なんとかそれを堪えるためにパパリャの腕にひっしとしがみつく。パパリャが「大丈夫さ」と言うように縋りつくクイの細い腕を擦った。


 外があまりにも明るく華やかなために、部屋の中は夜の闇のように暗く感じた。それほど奥行きが無いはずなのに暗さでどこに何があるのか分からない。ふたりは入り口で歩みを止め目が慣れてくるのを待った。

 逆に中の人物から声が掛かる。

「おや、パパリャ。クイ様をお連れして、どうしたんだい」

 女主人の身の回りの世話をする侍女の声だった。ふたりはその声がした方を向いて目を凝らした。ようやく左奥のほうに小さな窓の明かりが浮かんできた。その下に設えられた石の寝台に幾重も毛布が重ねられ誰かが横たわっているのが見えてくる。声を掛けた侍女はその寝台の横に立ってこちらを向いていた。

「あ、あの……。クイ様のことで奥様にご報告が……」

 気丈なパパリャもさすがに緊張するのか、しどろもどろになった。パパリャの言葉を聞いて侍女が寝台の上の人物のほうに屈みこみ何かを語りかけている。すると寝台の上の人がぼそぼそと何かを答え、それに頷いた侍女が再び身体を起こしてこちらを向いた。

「こちらへいらっしゃい、とおっしゃっているわ」

 ふたりはその言葉に従ってそろそろと寝台に近づいていった。パパリャが先に立ち、クイがその腕に引かれるような形で後ろに従う。クイの緊張は極限まで達し、もう自分で歩いている感覚さえなかった。こういうときに限って腹の痛みや不快感はまったく感じられず、さっきまで泣き言を言っていた自分が情けなく思えてしまう。あのときもう少し辛抱できていたならこんなところに連れてこられることも無かったのに。

 寝台の傍にやってくると、侍女が自分の場所を空けて寝台に横たわる人物の顔が見える位置を勧めた。そして寝台の枕の下にまたさらに多くの毛布を挟みこんで寝ていた人の上半身を起こした。お蔭でクイと寝台の伯母の視線がちょうど重なった。これまで張り詰めていたクイの神経がふと弛む。寝台の上の伯母はクイがこれまで抱いていた冷たく厳しいイメージではなく温和でどことなく儚げな表情をしていたのだ。驚いて伯母を見つめているクイの後ろでパパリャが女主人の午睡を妨げなければならない理由を説明した。

「奥様、おやすみのところ申し訳ありませんが、すぐにご報告しなければならないことがありますのでクイ様をお連れしたのです」

 これまで友だち、いや姉とも思うほど親しかったパパリャの堅苦しい言葉にクイはひどく衝撃を受ける。パパリャは表面では親しげにしていても心では距離を置いていたのだと思うと孤独を感じた。

 つづいたパパリャの言葉にもクイは驚かされることになる。

「おめでとうございます。クイ様はいよいよ成人を迎えられることになりました」





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