1、月を捕える虹
1、 月を捕える虹
騒然。
そこに人の声は無かった。物音さえも微かにしか聞こえない。しかし漂う空気は『騒然』という表現が最も良く当て嵌まる。人々は一様に空を見上げていた。肩と肩が擦れ合うほど大勢の人々で広場は埋め尽くされている。しかし動き回る者も声を上げる者もほとんど居ない。先刻から時が止まったかのように誰もが同じ姿勢でそこに立ち尽くしているのだった。
月は満ちていた。何時もなら夜でも出歩くのに不自由は無いほど明るいはずの満月の光は、その晩薄っすらと掛かった靄に遮られ弱々しく辺りを照らしていた。朧月は珍しいことではない。しかし人々が異様に感じているのは、月の周囲で輝く七色の光だ。月の輪郭を取り囲むようにひとつ。それを囲むようにまたひとつ。そして月と二重の輪を取り囲むように大きな輪が空いっぱいに広がっていた。
―― 三重の虹に捕えられた月が苦しそうに弱々しい光を放っている ――
誰もがその場景をそのように捉えた。そして戦慄を覚えた。
恐怖が最高潮に達したとき、人は言葉を発することさえ忘れる。騒然を通り越した先の静寂。例え音が無くともたくさんの動揺が周囲の空気を震わせているようだった。
広場の『異様な騒ぎ』を感じ取って、中央に建つ神殿から数人の神官を引き連れて大神官が姿を現した。大神官の姿に気づいたものは、窮屈な空間でも身を捩るようにして座り込み、ひれ伏した。
大神官さえもその夜空を目にすると言葉を失い息を呑んだ。しかし広場に集う民衆は彼の感じた何倍もの恐怖を感じていることだろう。唯一の救いは大神官がこの不可解な現象を正しく読み解き意味を理解させてくれることなのだ。大神官は傍に侍る神官たちに静かに指示した。
「急ぎ、占の準備を」
大神官の言葉を受けて、速やかに神官たちが神殿の中へと消えた。
大神官は眉間の皺をさらに深くして再び夜空を見上げる。空一面に広がった虹の色は儚げでいてあまりにも美しい。それがかえって妖しさを感じさせる。おそらく占いに依っても吉となることは無いだろうと彼は悟った。そう思うのは今宵の現象だけが原因ではない。以前からすでに異変は各所でぽつぽつと起きていたのである。あるところでは豊かな湖が突然干上がり、あるところでは神の遣いとされるコンドルが大量に死んでいた。その場に居合わせた神官が行った占いはすべて凶兆を示していた。しかしそれらの事象は広い国内のあちらこちらで起こった出来事であり、すべての報告を受けていた大神官だけがその経緯を知っていたのである。
おそらくこれが神からの最後通告なのだ。占は、誰もが目にしてしまったこの現象の意味を無知な民衆に知らしめるための手段である。いま、この群集の中で最も動揺しているのは他ならぬ大神官であろう。しかし彼はまったく平静を崩さず、支度が整うまでの間、うっとりと美しい虹を鑑賞しているかのようであった。
占の準備が整うころには、徐々に虹の色は薄くなり消えかけていた。月は厚い雲の中にその姿をすっかり隠してしまい、はじめに内縁の虹が消え、順々に外側の虹が消えていった。
広場の中央には大きな櫓が組まれ、炎が焚かれた。住民の家から急遽家畜が集められ、その場で捌かれ心臓が取り出される。神官たちは未だ蠢く心臓を持って大神官へと手渡す。大神官は祈りの言葉を途切れさせることなく臓腑を炎の中にくべていく。黒毛のリャマと白毛のリャマ、それぞれ五頭ずつが犠牲となった。広場には夥しい血が流れ、辺りは血の臭いに包まれた。
しばらく置いて、炎がすべて焼き尽くさないうちに神官たちが掻き棒で取り出した臓腑は、長い板の上に丁寧に並べられた。大神官はその形状を念入りに確かめていく。炭の塊と化したそのものに意味を見出すことができるのは限られた神官のみである。十個目の塊を手にとってつぶさに眺めた後、そっと元の位置に戻した大神官は、事の次第を見守る大勢の民衆へと面を向けた。そして一息吐くと声を張り上げた。
「神はわれわれに心せよとおっしゃった。われらは偉大なる太陽を失うであろう。新たな太陽が昇ることを期待し、われらはじっとそのときを待つが、光が現れ始めたとおもえば消え、また現れては消えを繰り返し、そのうち世界は闇に包まれるであろう。その先は何人も知ることは叶わぬ」
大神官の言葉が終わらないうちに、広場は悲鳴に包まれた。人々は泣き叫び、怒り、罵り、文字通り『騒然』となった。
事実を隠蔽して人々の心の平穏を保つほうが良かったのか。しかし神託を誤魔化すなどという背徳は大神官には赦されないことだ。最早抗えない運命が迫っているのなら、誰にも覚悟の時間が必要であろう。
しかし。神託は神託であるが大神官自身は解せなかった。国は広大であり、太陽の化身とされるサパ・インカの光の及ばぬ場所は最早ないといっても過言ではない。確かにサパ・インカは高齢で、最近は床に臥せっていることが多い。そろそろ、その役目を次に引き継ぐ準備を始めなければならない。しかしもう跡を継ぐ皇子は定まっており、彼の人には有力な貴族たちの後ろ盾もある。この期に及んでいったい何が起きるというのだろうか。
―― 何人も知ることは叶わぬ ――
人の了見では知りえない運命が動き出していることは確かだった。




