3、 クイとクッシリュ
3、クイとクッシリュ
クイとクッシリュの秘密の練習は、それから丘の上で毎日行われた。
クイはクッシリュと会うのが楽しみで、朝早く飛び起きて壁磨きを午前中に完璧に済ませてしまう。今まで一日掛けてのろのろと磨いていたものだから、屋敷のものは午後にクイの姿を見かけなくても、屋敷のどこかでまだ壁と向き合っているに違いないと思い込んでいた。そのうえ、これまでクイの行動に何かと難癖を付けてきた伯母も、クイの仕事ぶりが変わったことでそれほどクイに関心を示さなくなった。伯母は、クイがてきぱきと働くようになったのは塗り薬のお蔭でクイの体が丈夫になったせいだと信じているらしい。クイにとっては幸運な誤解だった。
ただひとり、厨房のパパリャだけは流石にクイの隠し事に気づいたようだ。
「クイ、最近は本当に楽しそうだね。それが魔法の塗り薬のせいじゃないことは、あたしには分かるよ」
干しいもとスープを手渡しながら、パパリャはクイに囁いた。訊かれてクイは観念したようにちろっと舌を出して見せる。しかしその問いを待っていたかのように急に顔を綻ばせると小声でパパリャに耳打ちした。本当は大声で叫びたいくらいだというくらいに息を弾ませて。
「そうなの、パパリャ。あなた以外の友だちが、屋敷の外に出来たのよ!」
言われてパパリャは少し身を引くと心底驚いた顔をクイに向けた。そしてまたクイの脇に顔を近づいて囁く。
「いったい、ぜんたい、どうやったら屋敷の外に友だちができるんだい」
「そうね。彼は空から堕ちてきたの。そして私を街に連れていってくれたの」
「彼って……。男の子?」
パパリャはさらに驚いて、驚くというよりも信じられないというように呆れた顔をして、逆にクイに忠告した。
「その男の子が誰だかなんて野暮なことは訊かないけれど、あんたがちょっと浮かれすぎていることは分かるよ。屋敷の外を知らなかったから、連れ出してくれた彼を神サマのお遣いみたいに思っているんだろうけど、気をつけたほうがいい。街にはあんまりいい噂はないんだから」
輝いていたクイの顔が俄かに翳った。
「どうして、そんなことを言うの? この目で街を見たわ。そりゃあ、少し寂しい感じがしたけれど、どうってことなかったわ」
クイが泣きそうな顔になったのを見て、パパリャはまた表情を変えた。
「ごめん。あんたが心配で余計なことを言っちまった。友達が出来たのはいいことだ。大事にしなくちゃいけないね。ただね、街の大人たちには近づくんじゃないよ。いろいろと厄介ごとを抱えているやつが多いからさ」
クイと違い、パパリャは街へお遣いに行くことが多い。お屋敷の食糧や必需品は侍従や侍女が調達してくる。パパリャのような少女であっても、この屋敷の主人よりも街の事情に詳しいのだ。クイの伯母はクイの容姿を隠したくて街へ出ることを赦さないが、パパリャはクイを守りたくてやはり街へ出るのを止めさせたいようなのだ。いったい街という場所がどんな厄介ごとを抱えているというのだろう。しかしおそらくこの場でその理由を聞いたとしてもクイには理解できそうにもない。
「分かったわ。パパリャ。気をつける。でも心配しないで。いつもクッシリュと遊ぶのは街外れの誰もいない丘の上なの」
それを聞いて、パパリャは安堵の溜め息を漏らした。
「そう。それならいいよ。あんたが危ない目に遭っていないなら。お蔭であんたのこんなに元気な姿を見られるんだから、そのクッシリュとやらに、あたしからも感謝したいくらいだよ」
「パパリャはまるでお母さんみたいね」
「ひどいな。せめてお姉さんにしといてくれよ」
パパリャがそう言って笑うと、つられてクイもくすくすと笑った。
街の厄介ごと。クイがその真実を知るまでにはそれから数年の歳月を要さねばならない。そのときはただただ、自分の世界が屋敷の中の狭い空間から大きく広がっていくことが、クイには嬉しくてならなかった。
遅い朝食を終えるころを見計らったかのように、クッシリュが壁の向こうから伸びている枝を揺する。クイは小さな友だちに残りの食事を分け与えて急いで壁の出口をくぐる。壁の外で待っていたクッシリュは走り寄ってきたクイの腕を捕えるとそのまま間を置かずに走り出す。少しクイに気遣って、走る速度を控えながら。
丘の上に上ると、クッシリュはここでもクイに休む間も与えずに小屋の中から武器を持ち出してきた。そんなクッシリュの行動に慣れたのか、もともと体力があったのか、クイも疲れもみせずにクッシリュの行動に付いていくのだった。
クイはだいたいの武器の扱いを覚えた。斧、棍棒、投石器、投げ石……。その種類も使い方も実に様々だが、とりあえずひととおりのものが扱えるようになっていた。クッシリュの教え方が上手なのか、クイの呑み込みが早いのか分からないが、クッシリュと対戦できるくらいまでになっている。まだまだクッシリュと互角にとはいかないが、まったく相手にならないほどではないのだ。そうなるとクッシリュは負けていられないと焦り出す。ときどきクイが女の子だということを忘れて本気になって向かっていくこともあった。
屋敷からほとんど言葉も交わさずに丘にやってきて、〈戦いごっこ〉に夢中だったふたりが手を休めるのは、そろそろ陽光が傾き始めるころだ。
武器を小屋に片付けて丘を覆う芝草に腰を下ろすと、眼下には石の都が箱庭のように広がって見えた。腰を落ち着けて今日の稽古のことや今日までに起こった出来事などを取り留めなく話す。ふたりにはいくら話しても足りないくらいにいろいろな話題があって、途切れることはない。暗くなる前に少しでもたくさんのことを知りたくて、教えたかった。
北の中空から照らしていた太陽はだいぶ西へと傾いて街の建物の影を向こうがわからこちらへと長く長く伸ばしていた。
クッシリュと話しながら突然、クイはパパリャに言われたことを思い出した。
「ねえ、クッシリュ。街は危険なところなの?」
「どうして? クイも知っているとおり、きれいで静かなところだよ」
「私の屋敷の友達、召し使いのパパリャが街の大人に気をつけてっていうの。パパリャは用事を言いつけられて街へ行くことが多いから、街のことをよく知っているのよ」
訊かれてクッシリュは黙り込み、街のほうを向いた。しばらくそのまま思いを巡らせていたが、また静かにクイのほうへと向き直り口を開いた。
「きっと太陽が照らなくなってしまったからさ」
「え? 太陽なら今も空の上にあるじゃない」
「ちがうよ。太陽ってサパ・インカさまのことさ。大人たちは言っている。いまサパ・インカさまは都を離れて遠い北の邦を照らしているんだって。だから都を照らしている太陽は偽物なんだって」
その話から、クイは前にクッシリュの言っていた言葉を思い出した。
―― 父さんはインカさまに従って、ずっと北の邦に行ったきりだ ――
しかしクッシリュはその話に不安や寂しさを感じているわけではないようだ。寧ろ目を輝かせて続きを話し出した。
「北の邦はそれはそれは素晴らしいところなんだ! 都みたいに太陽が遠ざかってしまうこともないから、たくさんの草木が生えていて美しい花が咲いていて、緑の山や広い河の流れる深い谷があって、たくさんの珍しい鳥たちが飛んでいる。インカさまがいらっしゃるところはいつも暖かくて気持ちがいいのさ」
クッシリュが見てきた風景では決して無いだろう。誰かから聞いた話をまるで自分の体験のように話しながら、クッシリュもその世界に居るつもりになっているようだ。
「ぼくは大きくなったら北の邦に行くんだ。父さんのようにインカさまを守って戦う戦士になるんだ」
クッシリュの夢を聞いた途端、クイの心の中に不安が広がっていった。
「いつか北へ行ってしまうの? クッシリュ。ずっと都に居るわけではないの?」
「大人になったらってことさ」
「でも……」
ずっと一緒に遊んでいられるわけではない。いつかふたりとも大人になるのだ。しかしもう大人になったときのことまで決めているクッシリュに対して先のことなど想像すらできないクイは大きな不安と寂しさを覚えた。
「クイも一緒に北へ行けばいいさ。大人になればひとりでなんだって決められる」
「そうかしら。だって私、何にも知らないのよ。こんな近くにある都のことだって」
「ぼくが教えてあげるよ。都のことも、北のことも。ぼくが見てきたものや、行ってきたところのことも。だから心配いらないよ」
いつかは屋敷の外へ出て暮らしたい。しかしクイは他所の世界のことを知らな過ぎる。でもクッシリュが居ればその願いも叶えることができるのかもしれない。屋敷から連れ出してくれたようにクイをもっと広い世界に導いてくれるのはこの少年しか居ないと、そのときクイは思っていた。
無邪気なふたりの時間がどれほど続いたのか分からない。ふたりの時間が噛み合わなくなったのは何時ごろだったのかも定かではない。そしてどの時点で大人になったのかも……。
しかし時は確実に流れていったのだった。