3、 謁見 (2)
キリャコ一行に謁見の許可が下りたのは、それから間もなくのことだった。ラグア夫人はその朝、屋敷の者たちとすっかり親しくなった客人たちを総出で見送ることにした。コイリュルも、夫人の数歩後ろに立ってキリャコたちの旅立ちを見送っていた。いや正しくは、相変わらず盲目の振りをしていなくてはならない彼女は、その様子を耳で感じ取っていたということなのだが。
「この数日間は懐かしい北の地にふたたび戻ったようでした。もう少しお話ができればよろしかったのに、寂しくなりますわ。しかしながらようやく貴殿のお役目を果たせるのですものね。喜んでお見送りいたしましょう」
社交辞令なのか、本心も交えてのことか、ラグア夫人がキリャコにそう告げた。
「こちらこそ、クスコでもまるで故郷で過ごしているかのように寛いだ時を過ごさせていただきました。十分に英気を養い、晴れやかな気持ちで陛下にお目に掛かることができます。お方様と、そしてご配慮いただいた陛下に感謝いたしております」
対してキリャコの声音は心からそう言っているような調子だった。サパ・インカがキリャコたちに疑念を抱いていること、コイリュルを利用しようとしたことを知っても、キリャコはラグア夫人に心を開いているのだろう。そもそも彼には、人を疑うという心は存在しないのかもしれない。その彼の純粋さがワスカルにはどう伝わるのか。コイリュルは、良いように考えようとすればするほど、一方の疑念と不安が大きくなっていくのを感じていた。
「ああ、なんと清々しい良い季節でしょう。今度こちらに伺う時には、あの山肌に見えているようなとうもろこしの林の中を探検してみたいものです」
先ほどよりも声を張り上げて、キリャコが言った。コイリュルはそれが、彼女に向けられたメッセージであることを悟った。
―― とうもろこしの林に潜んで、落ち合おう ――
「まあ、面白いことをお考えになるのね。未だ少年のような……。確かに北の地にはあのような広大な畑はあまり見られないでしょうから。次にいらしたときには、そのような遊びに興じるのもよろしいですわね。ぜひとも、またいらしてくださいな」
コイリュル以外の者にはキリャコの言葉の裏のメッセージは分からない。ラグア夫人が面白そうにそう言うと、見送る屋敷の者たちの表情も緩み、昔馴染みが故郷へと帰るのを見送るかのように、皆おもいおもい、キリャコたちにはなむけの言葉を贈った。
屋敷の者たちの騒ぎと対比を成すように、コイリュルの心はますます暗く沈んでいった。瞑った目の奥で、自分が緑の林の中を彷徨い、その先にキリャコの姿を見つける情景を何度も思い描く。ざわつく気持ちをそうやって慰めながら運命の別離に耐えるしかなかった。そうして、遠のいていくキリャコたちの足音と徐々に静まっていく周囲の騒ぎに耳を澄ましていた。
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キリャコ一行が皇帝の宮殿に到着したのは午過ぎのことだった。彼らの姿を認めて、数人の遣いが石塀の外まで出て来て迎えた。歓待するためというよりは詮索するためといった方がいいだろう。一行の先頭を歩くキリャコの両脇にぴったり寄り添い、無言で入り口に向かって歩き始めた。キリャコも仲間も半ば予測していた対応だ。ラグア家の歓待があまりにも心地よかったため緩んでいた緊張が、一気に張り詰めた。
側近たちは、キリャコの両脇に並んで歩きながら彼らの動きで謁見の部屋へと案内する。右を曲がるときは右側の者は無言で向きを変え、左に曲がるときは左側の者が向きを変えるといった具合に。
宮殿の内部は複雑で、目指す部屋に着くまではかなりの時間が掛かった。機械的に繰り返される案内で、かえってキリャコは自分の置かれた境遇を思い出し、覚悟を決めることができた。
どれほど奥へ進んだろうか。突然右側に寄り添っていた遣いの者が、前方を見据えたまま口を開いた。
「『眠る蛇』とは、どのようなご関係で」
一瞬キリャコは、彼が何を言ったのか分からなかった。それが自分に向けられた言葉だということにも気づかなかった。しかし『眠る蛇』という言葉を頭の中で繰り返し、ようやく彼の質問の意図を理解した。
キリャコの胸にはパパリャからもらった銀の蛇の首飾りがさがっていた。
「私の幼なじみの親友だ。宮殿の仲間によろしくと言付かってきた」
キリャコも前を見据えたままそう答えた。横で遣いが大きく頷いたのを察した。同時に両脇の遣いが歩みを止める。目前には、緻密な彫刻の施された石の囲いと、天井部分から下がる大判の仕切り布が立ち塞がっていた。
「ご到着!」
両脇の遣いが揃って声を張り上げると、分厚い仕切り布が、部屋の中の者によってたくし上げられた。一行の前に、人の背の三倍はあろうかという高い天井をもつ広い部屋が現れた。真っ先に目に飛び込んでいたのは、正面に掲げられた黄金の太陽神像である。左右の壁に設けられた高窓から差し込む光が、その神像に反射して目を射る。そのまま目線を下に移すと、石の玉座にゆったりと座るひとりの人物が居た。
彼こそが、キリャコとコイリュルの運命の鍵を握る……。いや、主アタワルパの運命も、ひいてはタワンティン・スーユ全土の運命を握る人物……皇帝ワスカルであることを疑う余地はなかった。
ワスカルの座る玉座の左右には、側近や皇族たちが数十人並んでいた。彼らの身分は、身に纏う服の質や描かれた文様で解る。クスコ派の要人が顔を揃えて、アタワルパの名代を待ち構えていたらしい。しかしクスコに入ってからラグア家で足止めをされて半月が経つ。彼らが、ただの興味本位でそこに集っているわけでないことは明らかだ。キリャコの態度如何では、ワスカル派の権威を見せつけて、使者たちだけでも懐柔しようという魂胆かもしれない。
睨め付けるような複数の視線に臆することなく、キリャコと使者たちは堂々とワスカルの方へと歩み寄っていった。そしてワスカルの表情がやっと窺えるほどの位置でゆっくりと跪き、床を擦るほど頭を垂れた。
「皇帝陛下、此度は拝謁をお赦しいただき恐縮至極に存じます。
我らアタワルパ殿下の名代として、新皇帝のご即位に際し、祝辞を言付かって参りました。殿下に於かれましては、北邦の情勢がたいへん不安定であるため、タワンティン・スーユ全土の安全を衛るためにも、一時たりとも彼の地を離れることのできない状況にございます。殿下も、陛下に拝顔叶うことをどれほど望んでおられることか。我らは皆、殿下の悔恨の深さをお傍で感じておりました。我らは、殿下の御身の一部となり影となり殿下をお助けすることを誓った者ばかりにございます。此度は殿下の声となって、皇帝陛下にお祝いのお言葉を申し上げたく、参上仕った次第にございます」
頭を低くした姿勢なので、くぐもった、しかし石の広間の隅々まで響き渡るようなキリャコの声が、立て板に水を流すようにそう告げた。
キリャコの言葉が終わってしばらくすると、キリャコたちの持参した数々の祝いの品が宮仕たちによって運び込まれてきた。すでに何度か祝いの品が届けられているため、これまでとは趣向を変えた珍しい品々だ。北の地にはどれほどの珍宝が埋もれているのだろうかと宮殿の者たちが驚くほど多様で、しかも良質で豪奢なものばかりだった。
あっという間に玉座の左右は溢れるような品々で豪勢に飾り立てられた。キリャコ一行が険しい山道をリャマに載せて運んできたものである。ラグア夫人の館に滞在する前に、彼らより一足早く宮殿に届けられ保管されていたのだ。
品物がすべて揃ったのを見届けて、キリャコと使者たちは一斉に声を張り上げた。
「タワンティン・スーユ国、第十二代皇帝クシ・トパ・ワルパ陛下のご即位を心よりお慶びいたします。
陛下の御代にて、タワンティン・スーユに生きるもの、息づくもの全てが、父なる太陽のご恩恵を賜り、豊かさと繁栄を手に入れることができましょう。これまでのどの王よりも偉大で慈悲深いクシ・トパ・ワルパ様の御代を誰もが待ち望んでおりました。どうか輝かしい御代が末永く続きますことを強く願っております」
彼らの声は、まるで謡を吟じているような美しい音色だった。しかしだからこそ、どこかに白々しさも感じられる。使者たちの最大の任務は、主君の言葉を皇帝に伝えることだ。それには一言一句違えずに諳んじることが大切だった。そこに個人の主観は一寸たりとも入り込んではならない。
最大の任務を果たし終えた使者たちは、その姿勢は微動だにせずとも、内から緊張がほどけていくのを感じていた。
その後大広間には、長い静寂が訪れた。




