2、 運命の出会い (5)
満月は昼のように辺りを明るく照らしていた。
夕刻から始まった宴だが、さすがに連日となると昨日のような盛り上がりにはならなかった。中庭が松明で明るく照らされているうちは、月の光など誰も気に留めなかったが、場が片づけられ、松明が全て消されたあとは、広々とした芝の庭とその向こうに広がる山並みを、夜とは思えないほど月がはっきりと映し出していた。
一旦部屋に戻っていたコイリュルは、ふたたび宴会場となっていた庭に戻って、庭の隅に立っている大木に走り寄った。幹の蔭から彼女の伸ばした手を取って大きな影が動く。コイリュルはせわしなく辺りを見回してから、影を伴って素早く傍の茂みの中に消えた。
コイリュルの部屋の窓の下で、パパリャは膝を抱えて座っていた。こんな夜更けに誰が来るわけでもなかろうが、辺りに張り詰めた静寂が少しの物音でも許さないと言っているようで、身動きするのを躊躇わせるのだ。だからこそ、前の茂みががさがさと小さな音を立てただけで、パパリャには大嵐で大木が揺すられているような大音量に思え、縮み上がった。
しかし、現れた少女とその連れ合いの姿に、パパリャは一気に身体の緊張を解いた。
「はあ、驚いたよ。息が止まるかと思った」
「ごめんなさい。遅くなってしまったわ」
「いや、遅くはないよ。あたしのほうこそ、しっかりしなくちゃ。あんたたちを案内してやるって言ったくせに、こんなにビクビクしていちゃ、務まらないよ」
自分を奮い立たせるように両頬を軽くぱんぱんと叩くと、パパリャは立ち上がり、コイリュルの連れに話し掛けた。
「はじめまして、クッシリュ……と話したいところだけど、挨拶は後だ。急ごう。それと」
今度は二人の背中に手をやって引き寄せると、小さな声で強く諭した。
「いいかい。地下水路の中では決して話をしないこと。足音くらいなら水音に紛れて分からないだろうが、話し声は地上に響く。ましてや皆が寝静まったこの時間なら、なおさらだ。それと、水路は昏い。手を繋いで転ばないように慎重に行くからね。つまり、往きと還りに時間が掛かるってことだ。それを忘れないでおくれ。あたしはあんたたちを案内したら都に戻るから。ふたりでしっかり道を覚えておいておくれよ」
パパリャの約束に二人が大きく頷いた。
パパリャがコイリュルの手を引き、コイリュルがクッシリュの手を引いて、三人はコイリュルの部屋の先にある緩やかな崖を下っていった。崖の途中に、人ひとりがようやく通り抜けられるような細い裂け目があった。パパリャは身体をくねらせて器用にその裂け目の中へ潜り込んだ。コイリュルもクッシリュも何とかそれに続く。裂け目の中に入ると、途端に激しい水音が響いてきた。人工的に造られた地下を流れる河である。しかしその姿は闇に紛れて見えない。暗闇の中に響く轟音は不気味で、コイリュルは、パパリャの手とクッシリュの手を同時に強く握りしめた。
パパリャに従って歩き出すと、意外にもそこは歩きやすい平坦な通路になっていた。目が慣れてくると、上部に設けられている明り取りの窓から月の光が差し込んで、辺りの様子をうっすらと照らし出しているのが分かった。三人が歩いているのは、勢いよく流れる河に沿うように綺麗に敷かれた石畳だ。しかし数十歩先は相変わらず闇の中だった。
どれほど歩き続けただろうか。話すこともできず先の様子も分からず、手の温度だけでお互いの存在を確認しながら歩き続けるというのは、それが例え、ほんの僅かな時間だったとしても、果てしない時間が経ったように感じるものだ。
ようやく行く手に明かりが見えたとき、コイリュルは悪夢から目覚めたような気がした。クッシリュを振り返ると、彼も眩しそうに明かりの方を見つめていた。
地下水路は蛇行してその先へと流れていくが、パパリャは脇に逸れて明かりの方へ向かった。出口までは少し急な上り坂だった。滑らないように慎重に坂を上り、地下壕から這い出た先には、なだらかな丘へと続く広い草原と、丁度丘の真上で煌々と辺りを照らす月だけがあった。
「なんてこと!」
地下で口を噤んできたコイリュルは、その反動か、思わず大きな声で叫んでいた。
「すごい!」
コイリュルにつられるように、クッシリュも叫んだ。驚くふたりを振り返って、パパリャは嬉しそうに言った。
「ああ、良かった。連れてきた甲斐があるってもんだ。ここは都の外れの丘さ。地下水路はあのまま都へと流れていく。でも、あんたたちは都に行きたいわけじゃないしね」
「ありがとう! パパリャ!」
コイリュルはパパリャに飛びついた。パパリャはその身体をいつものごとく、母親が子供をなだめるように優しくさすった。コイリュルが身体を離すと、パパリャは改めてクッシリュに向き合った。
「はじめまして。あたしはクイの友達のパパリャだ。あんたのことはクイから聞いて前から知っていた。クイはずっとあんたに会いたがっていた。こんな風に再会できて、あたしの方こそ嬉しいよ」
「はじめまして、パパリャ。幼い頃、クッシリュと呼ばれていました。今はキリャコと申します。私も、あなたのことはクイから聞いて知っていました。クイが屋敷の中で唯一、友達と呼べる人だと。どんな人なのかずっと知りたかった。こうして会うことができて、私も嬉しい」
「嫌だな。お互いを知っていながら、会うのにこんなに時間がかかっちまうなんて。おかしな縁だ」
「本当に」
笑い出したふたりにつられてコイリュルも笑い出し、楽し気な声が野原に響く。ここでは誰に遠慮もせず語り合うことが出来る喜びを、三人は噛みしめていた。
「おっと。あまり、あんたたちの時間を邪魔するのは良くないね。最後にひとつだけ。キリャコ、あんたにこれを託すよ。宮殿に行くときはこれを首に提げていくがいい。あたしの仲間があんたを悪いようにはしないから」
パパリャが手渡したのは、螺旋を描く小さな銀板がさがった首飾りだった。螺旋はよく見れば、とぐろを巻きその上に頭を乗せて眠る蛇を描いたものだった。
「蛇」
「『眠る蛇』……。あたしの紋章さ。あたしはカニャーリの『眠る蛇』。宮殿に仕える仲間たちに、そう言えば分かるはず。覚えておいておくれ」
不思議そうな目で見つめるクッシリュに、パパリャは笑顔で大きく頷いた。クッシリュが首飾りを提げたのを見届けて、パパリャは地下壕の入り口へと走って戻っていった。
パパリャの姿が消えるまで並んで見送っていたふたりは、どちらからともなくお互いの手を絡めていた。
※インカの地下水壕について。
物語の中では、都合よく出てきた秘密の抜け道のような使い方ですが、この地下水壕の存在は、未だ解明されない帝国末期のインカ人たちの行動の謎を解くうえで、重要なカギとなるものです。
密林に秘密都市を築いたインカ人たちが、たびたび征服された地域に現れたのは何故か。厳しいスペイン人たちの監視を逃れて、多くのインカ人が秘密都市に逃げ延びることができたのはなぜか。
それは広大な範囲に通じる裏のインフラが存在したせいではないかと。
征服後に俄かに整備したとは考えにくい。すると普段から使用していたもの……水道ではないか。
しかしこの存在は未だに確認されていません。だからこそ、ミステリアスな存在として注目を浴びています。
クスコの上下水道は、第9代皇帝パチャクティが治めた頃に、すでに整っていたと言われています。
その規模と完成度は、現在の都市にも劣らないほどだったそうです。しかも電気もなく重機もないことを考えると、現代を超える技術でしょう。
マチュピチュの王の間にあるトイレは、水洗トイレであったことが分かっていますしね。
なので、16世紀の話でありながら、頭の中は、現在のニューヨークを舞台にしたスパイ映画みたいに、下水溝を使って敵から逃げるようなイメージで書いてみました。
違うのは、地上がやたらと騒々しかったり、臭くて汚いイメージじゃないところでしょうか?(笑)
そう、インカの都市は、想像以上に超近代的、いや近未来的な都市だったのです。




