2、 運命の出会い (3)
夜のしじまを切り裂く甲高い笛の音が、幾重にも重なって軽快なハーモニーを奏でる。太鼓の激しいリズムは大地を揺らし足許から響いてくる。人々の声はますます熱気を帯び、酔狂な騒ぎが加速していく。
こんな宴は初めてだ。客人を愉しませたいというよりも、今このときくらいは、不安を忘れてしまいたいという、屋敷の人々の切実な叫びではないだろうか。コイリュルは、異様な騒ぎに不吉なものを感じ取っていた。
さらにいま、自分を支えるものは見知らぬ男の両手のみ。男が気まぐれに手を離せば、闇の中に放り出されて周りで何が起こっているのか分からなくなる。自分が正体を探ろうと思っていた男に全てを委ねてしまうとは。気付いてコイリュルは、自分の浅慮を激しく後悔していた。
コイリュルを誘って踊りの渦の中に入っていった男の歩みが止まった。コイリュルはただ、その動きに従うしかない。男の手は、コイリュルの両手を小さく左右に引いた。男が音楽に合わせて左右に揺れているのだ。男は自分の動きに付いてきなさいと言うように、握る手に力を込めた。
仕方なく、コイリュルもその動きに合わせてステップを踏む。コイリュルが動き出すと、男の動きは少しずつ大きくなっていく。コイリュルがその動きに合わせてまた大きく足を踏み出す。そうしていつの間にか、骨笛の軽快な音に合わせて、コイリュルの身体が自然とリズムを刻むようになっていった。
不安だった心は、動きが軽やかになっていくたびに薄らいでいく。はじめは男の手に頼り切っていたが、次第にコイリュルの方が彼の手を引いて踊りを教えるような形になった。
これまで屋敷の隅で目立たぬようにひっそりと暮らしてきたというのに、どこでこんな動きを覚えたのだろう。自分でも不思議に思ったが、おそらく父の館で毎朝武術の稽古をしていたときに身に付いた感覚だろうと思い至った。
「なんと、お目が不自由とは思えない。とても踊りがお上手なのですね」
男が息を弾ませながら愉し気にそう言った。
「身体を動かすのは好きなのです」
不審に思われるのを怖れて、コイリュルは当たり障りのない答えを返した。
「それは良かった。無理やりお誘いしてしまったが、お身体に障ったらどうしようかと少し後悔していたのです」
男は正直にそう話した。誠実なその言葉に、コイリュルは彼が悪意のある人間には思えなかった。
「このお屋敷の奥方様は、北のことをよくご存じだそうで、北からやってきた私たちのことを歓迎してくださっているのが分かります」
男が嬉しそうにそう話した。北を警戒しているはずのラグア夫人が、北の人間を歓迎しているとはどういうことだろうか。
「どうしてですか?」
「この曲は、北で有名な民謡なのですよ。まさかクスコでこの曲が聴けるとは思いませんでした」
ラグア夫人は確かに北に住んでいた。亡き夫は、北の皇帝軍の武将だったのである。それだけ北を理解しているはずのラグア夫人が、北を警戒するのは何故なのか。歓迎していると見せかけて北の使者を監視しようとするのは何故なのか。コイリュルはますます理解し難くなった。
しかしそうなれば、自分の感覚で目の前の男を見定めるまでだ。今のところ、彼に不信感を持つ理由は見当たらない。むしろ素直で誠実な人間だと感じる。
そして、彼のいう『北の民謡』のメロディは美しく、リズムは軽やかで、とても魅力的な音楽だ。そんな音楽を生んだ北の地が、危険な地域だとはとても思えなかった。
昔、友が語っていた北の邦のイメージ、そのままだ。
心地よい音楽に身を任せて踊るうちに、コイリュルの心は弾んできた。クッシリュは決して嘘を吐いていなかった。北は素晴らしいところなのだ。きっと、ワスカルやラグア夫人が何か勘違いをしているだけなのだ。後でラグア夫人に尋ねられたら正直に答えよう。北の使者は悪い人間では決してないと。
音楽が止んだ。コイリュルは動きを止めてもなお、頬を上気させ息を弾ませていた。意識せずに目前の男に満面の笑みを向けていた。彼がどんな表情でコイリュルを見ていたのかは知らないが、そんなことは気にならなかった。
やがて次の曲が始まったが、握っている男の手は動き出す気配がない。ステップを踏み出そうとしたコイリュルは拍子抜けした。男がどうして動けなくなったのか、見えないコイリュルには見当が付かない。少し不安が込み上げてきたとき、男がコイリュルに語りかけた。
「私は幼い頃、都に住んでいたんですよ」
「え?」
男が唐突に昔話を始めた意図は分からない。けれど、彼の生まれ故郷は北ではなくクスコだと聞いて驚いた。
流れる音楽を無視して、男は突っ立ったまま話を続けた。
「幼い頃、私はとてもやんちゃで、仲間と一緒に、日が昇ってから暮れるまで、街中を走り回っていました。好奇心が強くて、いたずらや冒険が大好きだった。
あるとき、街はずれの屋敷に黄金の鬣をしたプーマのような化け物がいるという噂を聞いた。仲間のあいだで、それを確かめに行く勇気のある者は誰かという話になった。負けん気の強かった私は、真っ先に名乗り出た。そして屋敷の塀の上に枝を伸ばす大きな木によじ登って、中の様子を覗いたんです。
実際には化け物もプーマも居なかった。代わりに見つけたのは、一筋の黄金の毛を持つ『鼠』だった」
ふたりの周囲から一切の音が消えた。
コイリュルは思わず目を開いていた。そこには、さっき遠目に見た、僅かに少年の面影を残しながらも精悍さを備えた青年の顔があった。
その面立ちに、コイリュルは確かに見覚えがあった。
「その『鼠』の瞳は、夜明けの空のような不思議な色だった」




