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2、 クッシリュ (1)


2、クッシリュ


 少年が街外れに走っていくのを見て、かつて仲間だった子どもたちは哀れむようにささやき合った。

「かわいそうに。きっと街外れに住む魔物に呪術をかけられたのさ」

「クッシリュは、取り殺されてしまうよ」

「しかたないさ。下手に助けようとすれば、ボクたちも取り憑かれてしまうよ」

 子どもたちは毎日街外れの丘の向こうへと通うクッシリュを遠巻きに見ながら、彼がいつか丘の向こうから戻ってこなくなる日が来るのではないかと恐れた。


 あれからクッシリュは毎日街外れのお屋敷に通っていた。高い塀の向こうまで枝を伸ばしている木によじ登り、茂みに身を潜めて中の様子を窺っていた。しかしあのときクイ(ねずみ)と名乗った女の子の姿を見ることは一度も無かった。そろそろ日が落ちる頃になると諦めて街へ帰る。そんなことの繰り返しだった。一日中木の上でじっとしているのは、これまで始終街の中を走り回っていた少年には苦痛だ。さらに目的を果たせない虚しさから、少年の表情は徐々に暗く沈んでいった。周囲の子どもたちが『取り憑かれた』と噂するのも無理はない。


 一日中遊びまわっていて、日が暮れてから帰宅するのは今に始まったことではない。しかしクイと出会ったあの日からクッシリュの生活が少し変わってきた。毎日木の上でぼんやりと過ごすだけの日々と待つ人が現れてくれない寂しさから、クッシリュは何をするにも上の空になった。

 クッシリュの母親はそんな少年を厳しく叱る。

「クッシリュ! いったい毎日何をやっているの。遊びに出てそんなに疲れていてはどうしようもないわ。もう遊びに行くのはおよしなさい。これから一日三度の水運びをおまえの仕事とします」


 成人を迎えるまで正式な名を持たない子どもたち。親はその子の性格や雰囲気から呼び名を付けることもある。つまり愛称のようなものだ。

 クッシリュの両親がわが子を迷わず『(クッシリュ)』と呼んだほど、クッシリュは活発で、悪く言えば落ち着きがない。仲間と一緒になって悪戯を働くこともあったし、ほとほと手をやく子だと言いながらも、明るく元気に育ってくれたことを喜んでいた。

 いちにち街中を飛び回って腹が減らないと帰ってこないような子が、夕暮れになると放心状態で帰ってくることが何日も続けば、心配しないわけにはいかない。

 クッシリュの母親は息子の変化に心を痛めていた。ましてや子どもたちが『魔物に取り憑かれた』と噂するのを聞けば、それがまったく戯言(たわごと)だとはいえなかった。そこでおかしな場所に行かないように用事を言いつけてクッシリュの行動範囲を制限してしまおうと考えたのだ。

 しかしクッシリュが本来、何事も思い込んだら止められない性格だということを母親は失念していたのだ。クッシリュは水汲みの(かめ)を背中に縛り付けたままクイの居る屋敷に通い、時間を見計らって水を汲んで家に運び、また出かけていくことを繰り返した。

 そこまでしてあの少女に会おうとするのは意地っぱりの性格からなのか、幼いクッシリュには動機など思い当たらなかったし、それはどうでもいいことだった。


 街はずれの屋敷でクイが現れるのを待ち続けて何日が過ぎただろうか。大人ならすでに相手は自分のことを忘れてしまったのだろうと諦めるところだが、一途な少年はその理由を探ろうともしなかった。何時ものように大きな甕を背負ったまま木によじ登り、茂った葉の陰でぼんやりと屋敷の方を眺めていた。

 やがて屋敷の中から小さな人影が現れた。手には食べ物の器を持っており、それを目当てにねずみや小鳥がちょこちょこと後を付いてくる。そして(ひさし)の陰に腰を下ろすと器の中の食べ物を千切って小動物たちに分け与え始めた。

 かつて出会った少女と同じような仕草をするその人影を、クッシリュは葉の陰から身を乗り出してよく見つめた。しかし何かが違うことに気づいてすぐに声を掛けることはできないでいた。

 不自然なほど豊かな黒髪には見覚えがある。あのとき少女が金の髪を隠すために被っていたのであろう黒毛のかつらと似た髪形だ。しかしその人は、クイの外見で最も印象的だった透けるような白い肌ではなかった。クッシリュと同じ褐色の肌をしている。そして泉の底を覗いたような薄青の瞳は……。残念なことに高い木の上に居るクッシリュからは、俯いている彼女の顔をよく見ることはできなかった。

 せめて瞳の色さえ分かれば。クッシリュは必死に身を乗り出した。根もとの太い枝なら小柄な少年を十分に支えることが出来るが、先の方の細い枝はそうはいかない。掴んだ枝の先が鈍い音を立ててしなったと思うや、クッシリュはバランスを崩して滑り落ちそうになった。咄嗟に枝にしがみついたが、重い甕を背負った背中が反転し、宙吊りのような体勢になってしまった。まさに枝にぶらさがる『猿』だ。

 その騒ぎに目当ての人はさっと顔を上げクッシリュの姿を見つめた。体力だけには自信のあるクッシリュは、何度も反動を付けてようやく枝の上に戻ることができた。

 大騒ぎのあと、恐る恐る後ろを振り返ると、すでに木の下に来ていた彼女が夜明けの空のような色を放つ瞳をクッシリュに向けていた。

「クッシリュ」

 声を掛けられてようやく褐色の肌の少女がクイその人だと分かる。

「クイなの?」

「そうよ。ひさしぶりね」

 クイは蒼い瞳を嬉しそうに歪めた。

「もうとっくに忘れてたんじゃないのか」

 クッシリュの中に、やっと会えたという喜びよりも、約束を守ってくれなかったクイへの苛立ちが湧き上がり、思わず口を尖らせてそう言った。

「そんなことないわ。待ってて。いま外に行くから」

 拗ねたクッシリュのことなど気にしない風に、クイははしゃぐようにそう言って脇の出口へと走っていった。クッシリュは苛立ちの持って行き場を失い、いつまでも拗ねているわけにはいかなくなった。すると、クイに再会できた喜びで心が躍っていることに気づいた。甕の重さなど感じないように軽々と枝を渡り、ひらりと壁の外へと降り立った。着地したクッシリュにちょうど屋敷から出てきたクイが駆け寄ってきた。

「約束、守ってくれたのね」

 息を弾ませてクイが言った。

「当たり前だろ。約束だもの」

「ずっと来てくれていたの?」

「違うよ。ぼくもいろいろと忙しくて、ようやく今日来ることができた」

 クイを前にしてしまうと、毎日此処で待っていたことなど逆に恥ずかしくて言えなかった。クイはクッシリュの背中の甕を見ながらすまなそうな顔をした。

「何かご用の途中なのね。わざわざ寄ってくれたのね」

「別に大した用じゃないんだ。夕暮れまでに水を汲んで帰ればいい話さ」

 昼の水汲みを終えた後で良かったと、心の中でほっと溜め息を吐く。

「そうだったの。私たち、ちょうど同じ機会に会えるなんて素敵ね。だって私もあのあと寝込んでしまって、今日ようやく外に出られたところなんですもの!」

 クッシリュはクイの意外な言葉に驚き、心配そうに訊いた。

「どうして? もう大丈夫なの?」

「あなたと会った日は日差しが強くて……。私、お日さまに当たると具合が悪くなってしまうのよ。それでしばらく寝込んでいたの。でも、もうすっかりいいのよ」

 クイは背筋を伸ばすと、握りこぶしを作った両腕を脇で振って見せた。

「でも、今日も日差しが強いよ」

 まだ心配そうなクッシリュに、クイは自分の顔をぐっと近づけ、頬を指差した。

「だからこれ。アンティ・スーユ(東の熱帯雨林地域)でとれる日よけの塗り薬なんですって。滅多に手に入らないみたいなんだけど、この屋敷の主のおばさまが苦労して見つけてきてくださったの。私が倒れてしまったら屋敷の壁を磨くものがいなくて、たいへんなんですって。

 倒れなければこの薬をもらうことはできなかったし、そうなると私は一生建物の中でくらさなければならなかったわ。だからね、クッシリュに感謝したいくらいよ。私これを塗っていれば、どこへだって行くことができるのよ!」

 その薬は肌の色だけでなく、心までも変えてしまうのだろうかとクッシリュは思った。あのとき出会った儚く弱々しい少女はそこにはいなかった。クッシリュの遊び仲間と何も変わらない、喜びを全身で表す元気で明るい女の子だった。

 クイに会いたかったのは、幽魔のような神秘的な少女に好奇心を抱いていたというのが本当のところかもしれない。しかし待ち望んだ再会のあと、一緒に遊ぶこともできないのでは虚しい。けれどクイは、いま確かにクッシリュの友だちとしてそこに存在していた。

「ねえ、実はね。今日はなんとなくあなたに会える気がしていたの。だから一日ぶんの用事を(ひる)までに済ませてしまったのよ。せっかく予感が本当になったんだもの。私を街へ連れていってくれないかしら」

 クッシリュは大きく頷くやいなや、クイの腕を掴んで走り出した。クッシリュの唐突な行動に一瞬戸惑ったものの、手を引かれて走りながら、クイは気持ちが大きく弾んでいることに気づいた。




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