2、 運命の出会い (2)
コイリュルが珍しくラグア夫人の部屋に呼ばれたのは、パパリャがコイリュルに秘密の情報をもたらしてから数日経った頃だった。最初の面会以来、ラグア夫人はコイリュルに無理なことを要求することは無かった。コイリュルが皇族としてのプライドを持ち、毅然とした態度を取ったことを、ラグア夫人はいたく気に入ってコイリュルに尊敬の念すら抱いていたからだ。だから夫人はコイリュルを部屋に呼び出すことさえ遠慮があったようである。部屋に入ってきたコイリュルを見るなり、酷く申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「ああ、姫君。わざわざお呼び立てしてすみませぬ。貴女にはこの屋敷で自由に過ごしていただくと約束したはずでありましたが、少々事情が変わりましてな。
近々、この屋敷に遠方からの客人を泊めることになったのです。少々長い滞在になりそうでして。その間、貴女の姿を客人に見られては、ややこしいことになるやもしれませぬ。出来ればその間だけ、お部屋の外では以前のように髪と肌の色を隠していただきたいのじゃ。盲目の振りをして、その瞳の色も客人には知られぬようにしていただきたいのじゃ。他所から来た者が貴女の姿を見たとき、おそらくおおいに驚くでありましょう。ただ驚くだけで済めば良いが、何分、よく見知らぬ者のこと。どのような噂を広められるか、分かりませぬゆえ」
ラグア夫人はあれこれと言い訳を取り繕いながら言葉を選んでいるが、要は、この屋敷にコイリュルのように特異な者が居ると知られると非常に都合が悪いということだ。ラグア夫人がいくらコイリュルの立場を尊重していても、居候に変わりないコイリュルには、主人の申し出に抗う権利はない。
「ええ、外からのお客様ならば、私の姿は奇異に見えるでしょう。大事なお客様を驚かせてはいけませんものね」
多少皮肉を込めてそう言うと、ラグア夫人は神妙な顔になった。
「そのようなことではないのです。客人といっても、心からもてなしたいわけでは……。実は、皇帝陛下の命で、この度やってくる客人の素性を、謁見の前に、このわらわに探って欲しいと……」
「それは随分、穏やかではないお話だこと……」
コイリュルはふと、パパリャの話と繋がる気がした。素性を探るというのは、得体の知れない輩の本意を暴き、サパ・インカに仇なす気配があれば、始末せよということかもしれない。サパ・インカに仇なす危険のあるもの……北の使者に違いない。
「いえ、そのような大それたことではないのですよ。ただ、都のことをよく知らない客人ゆえ、まずは郊外のこの屋敷で旅の疲れを癒してから宮殿にお連れするのが良いかと、この屋敷を提供したまでのこと」
先ほど自分が発した『探る』という言葉が持つ不穏な空気に、俄かに気付いたのか、ラグア夫人は慌ててそう言い直した。コイリュルにはその慌て様が、ますます怪しく思えた。
しかし、その客人がパパリャのいう『北の使者』ならば、この屋敷での客人の振る舞いが、そのままコイリュルの運命を決める重大事となるはずである。コイリュルにとって願ってもいないことだ。
「ええ、分かりました。サパ・インカのお客様でしたらなおのこと、粗相があってはいけませんから」
「ああ、ご理解していただけましたか。わらわも大役を任されて緊張しておりますのよ。姫君が協力してくださるならありがたいことですわ」
ラグア夫人はそう言って、にこやかにコイリュルの手を取った。
それからラグア家では客人を迎える準備が慌ただしく整えられていった。時々やってくるパパリャは、先日語っていた以上の情報は知らないようだが、ラグア家の客人が北の使者であるというコイリュルの憶測に同意した。
「クイ、その使者がどんな者たちか、よく見ておくんだ。あんたの運命だけじゃなくあたしの運命も、そいつらによって大きく変わる」
パパリャに背中を押されて、コイリュルは運命の日に向けて覚悟を決めた。
それから間もなく、ラグア家は五人の『客人』を迎え入れた。はじめのうちは、コイリュルが彼らに遭遇することは無かった。客人たちの応対は主ラグア夫人の務めであるから、コイリュルがわざわざ出向いて彼らに挨拶する機会は無かったし、自らその姿を晒しに行くのは、不自然であり危険でもある。コイリュルはいつも以上に部屋を出ることに慎重になっていた。しかし彼らを目にする機会を心待ちにもしていた。
その機会は、客人たちが到着して三日目の晩にやってきた。
その夜、ラグア夫人が歓迎の宴を催したのである。屋敷はクスコ郊外の自然豊かな場所にあり、美しい景観の臨める広い庭が自慢だった。ラグア夫人はその自慢の庭に敷物や座卓を並べさせ、屋外で歓迎の宴を開くことにしたのだ。
その場には、もちろんコイリュルも同席することになった。黒毛のかつらの中に慎重に金の髪を収め、日よけ薬で顔や露出している肌の色を変え、碧い目を閉じて盲目の振りをし、侍女に案内されて末席へと腰を落ち着けた。彼女に末席が用意されたのは、客人の目にあまり晒されないようにというラグア夫人の気遣いであろう。しかし、客人たちの席が離れていたことと、宴の開始が夕暮れだったことで、コイリュルは少し目を開いて、上座の客人たちの姿を遠目で観察することができたのである。
五人の客人は、遠目から見ても随分と鍛えられた身体をしていた。これまでコイリュルが目にした男性といえば、伯母の館にも、父の館にも居た、使用人や門番といった下働きの者たちくらいだ。貴族の男性といっても、ワスカルと、ワスカルの即位式でちらりと覗き見た数人だけである。
客人たちはそうした都の男性とはかなり違う容姿だった。屈強な体に動きやすい簡素な衣服を身に付け、装飾もそれほど付けていない。しかし下働きの者たちとは明らかに違う高貴な雰囲気を漂わせている。一様に背筋を伸ばして胡坐をかいている姿が、等間隔に植えられた樹木のようである。そっくり同じ姿勢で誰もが微動だにしないところは、樹木というより、生気のない『岩』と言った方が近いかもしれない。
身に付けているものは皆同じようでありながら、よく見れば、真ん中に坐した男性の恰好は、他の男性とは僅かに異なっていた。一見、簡素な形の服装だが、そこに縫い付けられた色とりどりの石のビーズが、かがり火の仄かな灯りにちかちかと反射しているのが分かる。襟元には左右の男性とは明らかに違う金属製の首飾りが下がっている。そして頭帯に差し込まれた羽根の数も左右の男性よりも多く、立派なものばかりだ。おそらく彼が、この客人たちのリーダーなのだろう。それにしては、彼は明らかに他の四人よりも若かった。鍛えられた身体つきは変わらないものの、少年からようやく青年へと変わり始めた頃のような、どこかにあどけなさを残している相貌だった。
違和感を感じたコイリュルは、薄く開いていた目をいつの間にか大きく開いて、まじまじとこの客人たちを見つめていたのだ。ふと、真ん中の青年の瞳がコイリュルの視線と重なった。コイリュルは慌てて目を閉じ、俯いた。
『どうしよう、私の瞳を見られてしまったかもしれない。この薄暗がりでは気づかなかったかしら』
コイリュルはそれから不安を抑えられなくなり、額に汗を滲ませて深く俯いているしかなくなった。周囲で何が起こっていようとも、宴がたけなわになろうとも、コイリュルの耳にはもう、誰かの話し声も物音も一切届かなくなってしまった。
どのくらい時が経ったか分からないが、俯くコイリュルの前に、突然大きな掌が二つ差し出され、そっと彼女の膝の先に載せられた。驚きのあまり、心臓は早鐘を打ち、額に溜めていた汗が流れ落ちる。じっと掌の先を見つめていると、頭の上から聞きなれない低い声が降ってきた。
「どうですか。一緒に踊ってくださいませんか」
声は彼女を怖がらせないように、穏やかに慎重にそう告げた。はっと、自分がいま『盲目である』ことに気付く。コイリュルは瞳を閉じて、ゆっくりと声の主の方に顔を上げた。声はその彼女の正面から再び告げた。
「私はこのお屋敷に招いていただいたキリャコという者です。奥方さまより、貴女さまがサパ・インカの御息女であらせられること。そしてお目が不自由であらせられることをお伺いいたしました。お招きいただいた者たちの代表として、姫君にご挨拶申し上げようと思い……。しかし貴女さまには、私の姿がお分かりにならない。それならば、私を知っていただくために、この手を取って一緒に踊ってはいただけないかと」
コイリュルは前に居るのであろう男の方へ顔を向けたまま、すぐに答えるのを躊躇った。
これはラグア夫人の挑発であろうか。ラグア夫人はなるべく客人の目を避けるようにと言っておきながら、この男にコイリュルのことを紹介したのである。その真意は何か……。
―― あやつらがどのような者たちなのか、曇りのないその目で見定めてくださりませ ――
ひとときの逡巡の後、ラグア夫人の言葉が思い起こされた。彼女はコイリュルに、その目、いやその感触で、この使者を見定めよと言いたいのだ。
コイリュルは決心して、男の掌に細い指を重ねた。男はその指先をそっと握り、彼女を引き起こすように立ち上がった。
これまで無音だったコイリュルの周りが急ににぎやかな音で満たされた。いつの間にか、陽気な骨笛や太鼓の音が響き渡っていて、人々は席を離れてそこかしこで歌い笑い、騒いでいたのである。
コイリュルが立ち上がると、男はコイリュルの手全体を握り直して、彼女を音の渦の中へと誘っていった。




