2、 運命の出会い (1)
2、運命の出会い
ラグア家での日常はコイリュルに、生まれてこの方、味わったことのない自由と平穏を与えてくれた。皇帝ワスカルとラグア夫人が何を画策しているのかを詮索すれば切りが無く、底知れない不安を覚えるが、起きてもいないことにあれこれと気を揉んでも虚しいだけだ。それよりも、コイリュルは初めてその白い肌と碧い瞳と金の髪を多くの人に晒すことを恐れずにいられる。そのことだけでも心の平穏が得られることを知ったのだ。もちろん、それはラグア家の屋敷の中に限ったことであるが、屋敷内に居る大勢の使用人が、自然とコイリュルの姿を認めているというのは、常に人の目から逃れることを考えていたこれまでの生活とはまるで違う。コイリュルはその時はじめて、幼い頃から何と窮屈な日常を送ってきたのだろうと気付いたのだ。
さらに嬉しいのは、ときどき地下水路を辿ってパパリャが会いに来てくれることだ。最も心を許す友人が見守ってくれる安心感に加えて、コイリュルが知ることの出来ない屋敷の外の様子をパパリャが教えてくれるというのも、不安を和らげてくれる。
今のコイリュルにとって、自分の知らないところで運命が動き出してしまうことが最も恐れることだったからだ。
ある午後、屋敷の者たちが昼餉の片づけを済ませて暫しの休息を取っている時間に、パパリャがやってきた。パパリャに依れば、夜、静まり返った屋敷に忍び込むよりも、この時間が一番人目に付きにくいそうだ。だから彼女はこの時間にコイリュルを訪れることが多かった。
何時ものごとく、少し高めに設けられた窓をよじ登って、コイリュルの部屋に転がり込んだパパリャだが、その日は何時ものように弾むような笑顔が見られなかった。
「パパリャ、街はどう?」
その日に限らず、コイリュルは真っ先にパパリャにそれを訊くのだった。ラグア家の平穏な日常が続けば続くほど、また運命が暗転することをコイリュルは最も恐れていた。パパリャにもそれはよく解っていた。だから、多少の物騒な噂を耳にしても、たいていは「変わりはないよ」と彼女を安心させていたのだが……。
その日、パパリャはすぐには返事を返さなかった。その態度が、コイリュルの恐れていた答えではないかとコイリュルの方でも身構えた。暫しの間があり、パパリャが口を開いた。
「……少し、動きがあった」
パパリャの言う遠慮がちな「少し」はそのままの意味ではない。コイリュルは碧い瞳を細めて、眉の間に軽く皺を寄せた。
「……動きって」
「北から使者がやってくる」
「北から? それは悪いことなの?」
「悪いこととは限らない。北の使者は、皇帝陛下の戴冠のお祝いにやってくるのだから」
「戴冠のお祝いって……。ワスカル様が戴冠されたのは、もうひと月も前よ。何故今頃になって」
「そうなんだ。北の邦の長、アタワルパ様は、これまでサパ・インカの戴冠を直接祝うことはしなかった。もちろん使者を通じて祝辞や贈り物は届いていたようだが」
「それなら祝福の気持ちは表していたはずだわ。それなのにまた?」
「サパ・インカ・ワスカルは、使者ではなく、北を支配するアタワルパ様に直接出向くように再三要請していたらしい。しかしアタワルパ様はどうしても北を離れることができないと。今回はアタワルパ様の最も信頼する使者を都城させることでサパ・インカの意向を汲んだことにしたいようなんだ。しかし、サパ・インカにそれが伝わるかどうか……」
―― 北の者たちは油断なりませぬ。ならば、北からの使者がやってきたときは、貴女もお会いになるとよろしい。あやつらがどのような者たちなのか、曇りのないその目で見定めてくださりませ ――
パパリャの言葉を継ぐように、ラグア夫人の言葉がコイリュルの脳裏に響いた。使者が信頼の置けない人物であったとき、おそらくワスカルは、サパ・インカの権威を貶める行為だと非難するだろう。その使者がどれほどの重きを置かれている人物なのか、それによって運命は大きく変わってくる。
コイリュルは突然早まった動悸に耐えられずによろめくと、胸を押さえて大きな深呼吸を繰り返した。パパリャがそれを支えようと近づくと、コイリュルは大丈夫というように片手で制した。
どうにか息が整うと、コイリュルは訊いた。
「そもそも……。なぜ、宮殿の者でないパパリャが、そんなことを知っているの?」
パパリャのことは信用しているが、冷静に考えればおかしなことである。パパリャは宮殿の者でないばかりか、コイリュルと同じケチュア族でもないのだ。
コイリュルがパパリャに期待していたのは、市井の人々の噂に上る程度の情報だった。しかし、パパリャは宮殿の者にすら伏せられているような機密情報を知っている。パパリャが噂をでっち上げて意図的にコイリュルを不安に陥れようとしているとも考えにくい。いや、そうは思いたくなかった。
パパリャは大きく溜息を吐くと、これまで見せたことのないような険しい顔つきで語り出した。
「クイ……。今更もう隠しても仕方ないし、隠してもあんたを傷つけるだけになるだろう。だから正直に話すよ。あたしたちは、あたしの一族カニャーリは昔、ケチュアに忠誠を誓うことを強要された。
クイも知っている通り、あたしの故郷は北の邦だ。北はもともと、あたしたちの土地だった。しかし、前皇帝ワイナ・カパックの率いる軍隊に突然襲われたんだ。最初は抵抗した。一族の者は命がけで戦った。けれど力の差はどうにもならなかった。一族の王であるあたしの父さんは、これ以上戦えばカニャーリの民が絶えてしまうと思い、ケチュアに従うことで一族を存続させることを選んだ。幼いあたしを人質にすることで、一族をサパ・インカの支配下で生き延びさせてもらいたいと願い出たんだ。
あたしはそうしてクスコに連れて来られた。北に残ったカニャーリの一族は、サパ・インカのために働いた。ときにかつての同盟者とも戦わなくちゃならなかったけど、一族が生き残るほうが大切だ。裏切者と謗られても、カニャーリはサパ・インカに従った。その功績を認められて、一部のカニャーリ人がクスコに移住しカニャーリの自治区を作ることも許された。まだ幼いうちにひとりクスコに連れて来られたあたしだったけど、ようやく仲間と会うことができたんだ。そして今は仲間と暮らせるようになった」
「パパリャが前に話していた、森の向こうから襲ってくる得体の知れないものというのは……」
「ああ、サパ・インカの軍隊のことだ。あたしはまだ、ほんの小さな子どもだったけど、その時の記憶だけは色褪せない。あたしたちは、恐ろしい敵の懐に自ら飛び込んで生きる残る決心をしたんだ。けれど、それは間違いじゃなかった。あたしにはクイという親友ができて、今は仲間と暮らすこともできるようになった。あのときインカに従わなければ、あたしはここに居なかった」
「……パパリャ」
コイリュルは、これまで自分の運命ばかりを嘆いていたことを恥ずかしく思った。パパリャはコイリュルが俯いて押し黙ってしまったことに慌てて、コイリュルの顔を覗き込んで優しく言った。
「あたしは、生き残ってクイと出会えたことが幸せだって、言いたいんだよ。別に自分の運命を恨んでいるんじゃない。
ただね、そんなあたしたちも、また大きな運命の分かれ道に立たされることになった。この都と北の都の対立だ。サパ・インカ・ワスカルは、何人かのカニャーリ人を重臣に取り立てた。カニャーリがワスカル様に忠誠を誓えば、再び北の故郷で暮らせるようにしてやると……」
コイリュルはハッと顔を上げ、怒りを顕わにして叫んだ。
「それって!」
「おそらく、ワスカル様に従い、万が一のときにはアタワルパ様に対抗せよと……。北の地理に詳しいあたしたちは間諜にもなれる……」
「そんな! ではワスカルは、もう北の邦と和解するつもりはないということ?」
「判らないが、今度北からやってくる使者がどのような人物かによって、運命は決まると思う……」
そのとき、部屋の外が騒がしくなってきたことに二人は気付いた。夕餉の支度のために、召使いたちが動き出したのだ。パパリャがこれ以上、コイリュルの部屋にいることは危険だ。訊きたいことはまだまだあるが、コイリュルは諦めるしかなかった。
窓へ向かう前に、パパリャはコイリュルの両肩をしっかりと掴んで言った。
「あたしは、ワスカル様の味方でも、アタワルパ様の味方でもない。クイ、あんたの味方だ。それだけは忘れないで!」
固い笑顔を作って深く頷くと、パパリャは窓枠をまたいで姿を消した。
北の使者がクスコに着いたとき、コイリュルは再び大きな岐路に立たされる。果たしてそれは絶望の道か希望の道か……。判っているのは、彼女の人生に平穏はあり得ないということだった。
※インカ内乱の際に鍵となる『カニャーリ族』
彼らはふたりの皇帝の間に立って裏切りを繰り返し、決定的な対立に導いたという、不名誉なことで知られるようになってしまいました。
しかし、負の歴史というのは、本当に最初から負に向かおうとしていたのか。
どの歴史も、そこにより良く生きたいという願いがあったのだと、私は考えます。
ふたりのインカを翻弄させて、混乱に陥れたように描かれてしまうカニャーリ族も、生き残るための苦肉の策が裏目に出てしまったとみることができるでしょう。そして、彼らが弱い立場だったからこそ、汚名を着せられても抗うことができなかったのではないでしょうか。
さて、コイリュルとパパリャの運命もまた、変わってきます。
不穏なことを予告するような流れですが、この先は悪いことばかりが起きるわけではないという事だけ、予告しておきます。




