3、 牽制 (4)
案内人はコイリュルを部屋の中央に導いて姿を消した。コイリュルは、彼女の瞳の色を隠すために頭から掛けられた薄布を通して正面の人物を見つめた。豊かな黒髪と彫りの深い顔立ちを持つ絶世の美女が、ゆったりとした石の椅子に腰かけ、左のひじ掛けに身体を預けるような姿勢でこちらを見つめていた。
美貌の女性にじっと見つめられれば、例え同性であったとしても胸が高鳴る。魅惑的な大きな黒い瞳は、自分を詮索しているのか、それとも親愛の情を示しているのか判断が付きかねて、コイリュルは身を縮ませ、額に汗を滲ませた。
クスリ……
緊張するコイリュルの様子に、女性はようやく笑みを浮かべた。
「そのように畏まらずともよい。そなたを捕えて何かを訊き出そうというわけではない。縁あってこの屋敷で暮らすことになったのじゃ。今日から此処がそなたの安住の館。好きなように過ごしてよいのじゃよ」
聞きなれない宮中ことばと、同じ皇族でありながら見下したようなその科白に、コイリュルの緊張は一気に解け、代わりに不快感が湧き上がってくるのを感じた。丸めていた背中をすっと伸ばし首筋を立て、女性の瞳に真っ直ぐに向き合うと、コイリュルは静かに告げた。
「このお屋敷の一隅をお貸しいただけること、大変ありがたく思っております。しかし、本来わたくしは皇帝の娘。住み込みの使用人でも居候でもありません。諸々の事情があり、宮殿にわたくしの部屋が用意できないため、こちらに用意していただいた。そう心得ております。ラグア様にお赦しをいただかずとも、好きなように過ごすのは当然のことと存じておりますが」
そんな科白を言い放ちながら、コイリュルは自分がいつからそのようなプライドを身に付けたのだろうかと思い返していた。
幼い頃から使用人のように扱われ、その姿を汚らわしいものであるかのように隠し、都へ来てもなお、与えられた屋敷の隅で影のように暮らすことを強要されてきた。
しかし本来は、皇太子であったニナン・クヨチの娘なのだ。現皇帝ワスカルよりも高い地位を得るはずであった。ニナンが亡くなってその地位は消滅したかに思えたが、奇しくも現皇帝自身が彼女を『娘』として世間に公表したのである。彼女は未だ皇族の中でも高い地位を保障されているのだ。さらに、皇帝ワスカルに彼女の神秘性を利用しようという心づもりがあるのなら、皇帝自身もコイリュルに一目置かなければならないという事だ。この期に及んで何を遠慮することがあるだろうか。
パパリャの庇護を失くし、コイリュルがひとりで生き抜く決意をしたとき、彼女はそんなことに思い至ったのだった。
「ほほほほほ…………」
突然、正面の貴婦人が口許に軽く手を当て、天井を向いて高らかな笑い声を上げた。ひとしきりそうしたあと、またコイリュルに向き直り、先ほどより穏やかな声で言った。
「素晴らしい貴婦人であらっしゃるな、コリ・コイリュルさま。わらわは、このような物言いしか知らぬゆえ、ご無礼をお赦しいただきたいのじゃ。確かに貴女は皇帝陛下の御姫君。わらわのような、一介の軍人の未亡人とはその位が違う。貴女がしかるべきお方に嫁がれるまでは、皇帝の御姫君として敬うのは当然のこと。この屋敷の中で最も優遇されなければなりますまい」
コイリュルに敬意を示すような言葉を述べながら、美貌の未亡人の瞳になおも鋭い光が宿っていることをコイリュルは見逃さなかった。どう体裁を繕っても、居候であることには違いない。ラグア家にとって面倒な存在であるのは確かだ。当主ラグア夫人の気分次第で再び住処を追われることも大いにあり得ることだ。それならばせめて、生意気な小娘と反感を持たれても、『貴賓』として丁重に扱われなくてはならないことを主張しておく必要がある。コイリュルも負けじと薄布越しに、ラグア夫人へ鋭い視線を投げ掛けた。
しばらくの静寂が流れたあと、ラグア夫人は深く嘆息し、再び満面の笑みを浮かべた。
「…………さすがは『白い子』じゃ。賢く気高い貴女をお迎えできて、わらわは幸せにござりまする」
ゆっくりと席を立った夫人は、コイリュルに向かって身体を折り曲げ、最敬礼の姿勢を取った。
「この館では、そのお姿を偽る必要はない。いえ、むしろ偽らぬお姿でお過ごしくだされ。いつかは真のお姿で民衆の前にお出ましになり、この乱世で生きる力を失くした者たちの希望となってくだされば」
「そんな大それたこと……」
「いいえ、この時代に貴女が生を受けたこと、それはおそらく、非常に重要な意味を持つものではないかと、わらわは感じまする」
ワスカルは、ラグア夫人にコイリュルの秘密を明かしていたのだ。ラグア夫人だけでなく、すでにこの館の多くの者がコイリュルの『真実』を知っているのかもしれない。今度はそのことを懸念しなけらばならなくなった。
「私が『白い子』であることは、お父様からお聞きになったのですか」
「ええ。しかしご安心を。貴女のことはこの館の者しか知りません。決して他に知られることのないようにと、陛下より厳しいお達しがありましたゆえ」
「いったいお父様は、私をどうなさるおつもりなの……」
コイリュルは、ラグア夫人の前であることも忘れて思わず不安に思っていることをひとり言のように呟いた。しかしその答えはラグア夫人の口から告げられた。
「尊い貴女の存在は、時が来るまでこのラグア家がお守りいたしまする。時が来たら、わが都には女神が居ることを民に報せるのです。さすれば民はこのクスコが本来の都であることに気付くでありましょう」
「何故、そのようなことをする必要があるのですか」
「…………北の邦に……陛下とクスコを蔑ろにして、都を築こうとする者が現れたとき、クスコが本来の都であることを知らしめるため」
「北に? 北の邦は平和で美しいところと聞いています。その様な者が現れるなどと、信じられません」
「はて、どこからその様なことをお聞きになったのやら。北の者たちは油断なりませぬ。ならば、北からの使者がやってきたときは、貴女もお会いになるとよろしい。あやつらがどのような者たちなのか、曇りのないその目で見定めてくださりませ」
まるで北の人々が敵であるかのように話すラグア夫人に、コイリュルは不安を覚えた。同じ国の中でありながら、クスコ地方とは分断され、敵対しているような印象だ。コイリュルの知らない遠い地のことではあるが、北といえば幼なじみのクッシリュが暮らしているはずだ。二度と会うことは無いだろうが、それでもかつて最も心を許した友が敵になるのは哀しい。
これまで強気にラグア夫人に対峙していたコイリュルだったが、そのとき足許から崩れ落ちそうな無力感を覚え、姿勢を保つのがやっとのことだった。
ラグア夫人との面会のあと、与えられた部屋に戻ったコイリュルの心は沈み切っていた。
北を敵視し、自らを優位に立たせるために、コイリュルを利用しようと目論むワスカル皇帝とその一族。これまで神の怒りを畏れて隠されてきたコイリュルの真の姿を、今度は敵への牽制として利用しようとしている。その恐ろしさに思わず身を震わせる。これから自分の運命はどうなってしまうのだろうか。
「コイリュル様……」
その時、微かな声が自分を呼んでいることに気付いた。
「コイリュル様…………クイ」
声は窓の外から聞こえた。そしてその呼びかけで、声の主が誰なのかをコイリュルは察した。慌てて窓の外に身体を乗り出し下を覗く。そこにはうずくまって上を見上げるパパリャの姿があった。
「パパリャ、どうして……」
問いかけたコイリュルから視線を逸らし、パパリャは忙しなく辺りを見回した。そして再びコイリュルを見上げて言った。
「今のうちだ。手を貸しておくれよ」
コイリュルが窓から身を乗り出して差し延べた手を握り、それを支えに足で壁を伝って、パパリャは窓からひらりとコイリュルの部屋に舞い込んだ。
「パパリャ、どうしてここにいるの!」
パパリャの身体にしがみつきながら、嬉しそうにコイリュルが訊く。コイリュルの身体を受け止めながら、パパリャは言った。
「あたしの仲間がこの館の建設に関わっていたんだ。この館には地下水路に繋がる秘密の抜け道があってね。逆に外から地下水路を伝ってここへ潜り込んだってわけさ。館に入り込んだはいいけど、クイの部屋を探すのが一苦労だった。さっき、あんたがこの部屋に入るのを見かけたから、外から小さな声で呼びかけてみたのさ。あんたがひとりかどうか確かめなくてはいけないからね。会えて良かった」
「またパパリャに会えるなんて、夢じゃないかしら」
「夢じゃないよ。あたしはまだ都に居るし、こうしていつでも会いにこれるんだ。クイをひとりになんてしないからね」
「ありがとう。とうとう私の味方は誰も居なくなってしまったと思って悲しんでいたところよ。こんなに嬉しいことはないわ」
神は未だ、自分を見捨ててはいなかった。パパリャの胸に顔を埋めながらコイリュルは、絶望で暗く沈んでいた心に、眩い一筋の光が差し込むのを感じた。




