3、 牽制 (2)
新皇帝の即位に沸き立っていた街が、ようやく日常の平穏を取り戻し始めた頃、コイリュルも少しずつ、ワスカルへの疑念を忘れ始めていた。
父ニナン・クヨチについて何も聞かされないことが答えなのだ。ここから先、コリ・コイリュルという一皇族として、自分の生き方を考えていかなくてはならない。そもそも父に逢えようが逢えまいが、孤独の中で生き抜かなくてはいけない運命は定まっていたのだから。
おそらく、コイリュルがそう決心した後で無ければ、その日の出来事はあまりにも衝撃的で、彼女は途方に暮れていただろう。何日も悲嘆に暮れて泣き暮らしていたかもしれない。けれどコイリュルには、自らの運命を淡々と受け止める覚悟は出来ていた。
再開した朝の鍛錬を終え、身支度を整えた後、皇帝の宮殿から使者がやってきた。謁見を申し込まれてから、それほど待たせたつもりはないのに、使者は、パパリャと共に客間に現れたコイリュルを睨め付け、小さく舌打ちをした。苛立たしげに胡坐をかいた膝の上を指で細かく叩いていた。盲目の振りをして目を伏せながらも、コイリュルは薄く開いた瞼の隙から使者の様子を伺っていた。
コイリュルと正面に向き合うと、格下の者に敬意を払わされる屈辱に耐えるのは苦痛だと言わんばかりに、挑戦的な目をコイリュルに向けて、大袈裟に頭を垂れて見せる。
「皇帝陛下のご息女におかれましては、お変わりなくお過ごしのこと、お慶び申し上げます」
そう言ってしばらく床擦れ擦れに頭を下げた姿勢で動かない使者に、コイリュルは言葉を掛ける。
「お気遣いありがとう。お蔭さまでつつがなく暮らしております。お父様にもしばらくお目に掛かっておりませんが、益々ご健勝のこととお察しいたしております。私のことはお案じなさらぬ様、お伝えください」
訪問先の主に型通りの挨拶を投げ掛けられてはじめて、頭を上げることを赦される。ようやく姿勢を元に戻した使者は、相変わらず鋭い目つきでコイリュルを見据えた。彼がコイリュルに敬意の欠片も持っていないことは一目瞭然だ。コイリュルも、傍で見つめるパパリャにも、この使者がもたらす報せは、彼女たちにあまり良いものでは無いことが判った。
そんな二人の様子など全く気に掛けず、使者はいきなり本題を切り出した。
「皇帝陛下より、コイリュル様へのお言伝をお預かりしております。
明日より、コイリュル様に於かれましては、陛下の姉君ラグア様のお屋敷へとお移りいただきますようお願い申し上げます。
このお屋敷は、先代皇帝の皇太子であられたニナン・クヨチ様のものでございました。コイリュル様には、長年ご不在のニナン様に代わり、このお屋敷を管理いただき、陛下もその功績を労っておられます。しかし、ニナン様亡き後まで、ご負担をおかけするわけには参りません。つきましては、コイリュル様のご結婚が決まりますまで、ラグア様の許でゆっくりとお過ごしになりますようにと、陛下のお心遣いにございます」
コイリュルははじめ、使者の言わんとするところが全て理解できず戸惑った。使者は同じ言葉を二度と繰り返すことは無かったので、コイリュルの覚えている限りの言葉を、もう一度ひとつひとつ思い返して、意味を繋げていくことしかできなかった。
使者は再び頭を深々と下げ、コイリュルの返事を待っていたが、それに応えるためにはかなりの時間を要さなくてはならなかった。
ようやく意味が繋がっても、それに納得することはその場ではとてもできそうにない。コイリュルは自分の解読した内容が正しいかどうかを使者に確かめなければならなかった。
「今お聞きした内容をうまく解せないので、繰り返すことをお許しください。
つまり……。私は明日から、この屋敷を出てラグア夫人の館で暮らすことになると。その理由は、この館の持ち主であったニナン・クヨチ様が亡くなられたからだと。そういうことですか」
「はい。その通りにございます」
ラグア夫人とは、ワスカルの姉であり、先代ワイナ・カパック帝の側近の妻であった。北の戦乱で夫を亡くし未亡人となったが、その莫大な財を受け継ぎ、クスコで悠々自適な生活を送っている。皇族の間でも一目置かれる存在なのである。コイリュルは、このニナンの館を引き払い、突然ラグア夫人の許で暮らすようにと命令されたのだ。
「私は、ニナン様が亡くなられたこともお聞きしておりませんでした。それをいきなり、明日にはここを出て行けなど……。なんとひどい仕打ちでしょうか。お父様は、とても私を労っているようには思えません」
使者は姿勢を戻すと、怪訝な顔で告げた。
「ご存知のように、陛下はもう皇子様ではございません。多くの民を束ねるという重責を担っていらっしゃるのです。コイリュル様に直接お声をお掛けしたくても叶わない事情があること、どうかご理解くださいませ。今後コイリュル様に、皇女に相応しい豊かな教養を授け、安心して暮らしていただけるようにと、ラグア様にコイリュル様を託されたのでございます。どうか陛下のお気持ちをお察しくださいませ」
建て前は、最愛の娘を心配する佳き父親である。しかしその実は、後ろ盾の無くなった哀れな娘の処遇に困り、財のある未亡人に押し付けようという魂胆だ。しかしそれを説明したところで、もはやコイリュルの言葉を信じる者など、誰ひとりとして居ない。コイリュルには怒りを持つことさえ赦されないのだ。
「パパリャは……。ここに居る侍女は連れていけるのですね」
唯一残った救いを手放すことだけはしたくない。使者ごときに訊いても答えられないだろうが、コイリュルは確かめずにはいられなかった。使者がワスカルの許にその伝言を届けてくれるだけでいいのだ。
しかし意外にも、使者はあっさりそれに答えた。
「そのことも言付かっております。この侍女は今日限り、その任を解くこととなりました。彼女は北の一大部族カニャーリの姫君でございます。人質としてクスコの皇族の館で働くことを強要されて参りました。陛下は、先代皇帝の許で理不尽にも重労働を課せられてきた他部族の人質を解放されることを宣言なさいました。明日より彼女には自由が与えられます。故郷に帰るのも良し、都のカニャーリの居住地区で暮らすのも良し。これまで自由を制限してきた分、彼女には今後の生活の保障をさせていただきます」
コイリュルがパパリャを振り返ると、パパリャ自身も青天の霹靂という表情だ。
「そんなこと……。初めて聞いたよ。あたしは別に重労働をしていたなんて、思ってない。この館で働いてはいたが、故郷の仲間の所へ行くことも自由だった。コイリュル様も特にどこへ行くかなど詮索することはなさらなかった。今更コイリュル様の傍を離れろと言われても納得できない。あたしはこのままコイリュル様に付いていきたい」
「残念ながら、それは叶いません。いくらコイリュル様の傍遣いといっても、ラグア様のお屋敷では、主はラグア様です。そのラグア様が、外部から侍女を入れることをお赦しにはならないでしょう。ましてや皇帝陛下が他民族の人質に下働きをさせてはならないと宣言されたのです。どうか今後はカニャーリの王族としてふさわしい暮らしを送られますように」
「嫌だよ! あたしはクイと一緒に居る!」
パパリャは思わずクイの身体を抱きしめて叫んだ。これまではコイリュルの方からパパリャに縋ることばかりだったが、初めてパパリャの方からコイリュルに縋ったのだ。コイリュルは、いつもパパリャに助けられてばかりだと後ろめたい気持ちだったが、実はパパリャにもコイリュルが必要な存在だったということに、そのとき気付いたのだ。コイリュルも縋りつくパパリャの服をぎゅっと握りしめた。
そんな二人の姿にも使者は何の感情も動かされず、冷静に告げた。
「私の役目はただ、陛下のお言葉をお伝えするのみ。明日、ラグア様の使者がコイリュル様をお迎えに上がります。そのときにお話されてください。おそらく陛下のご裁断が覆ることは無いでしょう。お二人の今後に差し障りがあることはお控えなさった方がよろしいかと存じますよ」
使者はそう冷たく言い放ち、また慇懃な礼を尽くして部屋を出て行った。
残された二人は抱き合ったままその場に崩れ落ち、そのまま言葉もなく支え合っていた。




