3、 牽制 (1)
3、牽制
ワイナ・カパック帝の喪が明けてすぐ、新皇帝にワスカルを立てるべく、戴冠にまつわる儀式が執り行われた。
ワスカルの即位式は歴代皇帝の中でも特に派手やかだった。いや、歴代皇帝のものとの違いを直接その目で確かめられるほどの年齢の者は少ないが、そう思わせるほどに贅を尽くしたものであった。何故ならそれが単なる代の交代ではなく、北の反対勢力に見せつける狙いがあったからだ。
戴冠の儀式から続く祝宴は、何日も何日も催された。
ワスカル自身はもちろんのこと、その妻、子、親類、そして生母ラウラ・オクリョまで、豪奢な服や装飾品を身に付け、連日贅沢な宴に興じ、市民たちにも祝いの菓子が配られるほどであった。
これまで館の奥でなりを潜めていたコイリュルも、この時ばかりは公の場に顔を出さなくてはいけなくなった。『ワスカルの娘』として、父親の晴れの席に欠席してよい理由などないからだ。ワスカルの妻や子、そして親類は、これまで障害を抱えて宮殿の奥でしか暮らせないとされていた『謎の娘』の姿を初めて目にすることができると、好奇心を抱いた。
コイリュルの胸の内では、疑念と緊張と恐怖がない交ぜになっていた。そもそも本当の父親が次期皇帝であると彼女に告げたのはワスカルである。そしてその父がもうすぐ都に帰還すると期待させたのも彼だ。確かにワスカルが、心の底から父ニナン・クヨチに敬意を払っているのかは疑問だったが、少なくとも皇帝と皇太子が帰還するという事に偽りは無かったように思う。何故なら、ワスカルも心底嬉しそうな表情をしていたからだ。あの時の彼はとても演技しているようには見えなかった。
しかし、その後ワスカルがコイリュルの館に吉報を持って訪れてくることは無かった。さすがにそろそろ、何か報せがあってもおかしくないと思っていた頃に、ワイナ・カパック帝の死と次期皇帝がワスカルに決まったことを知った。
ワイナ・カパック帝が亡くなったとすれば、次期皇帝はコイリュルの父ニナン・クヨチだったはずである。しかし、何故ニナンが次期皇帝にならないのかということについては誰も口にしない。もし亡くなっていたとしても、仮にも皇太子。皇帝と同じく盛大な葬儀が行われても良いようなものだ。
結局その謎の答えを誰からも聞かせてもらえないまま、コイリュルはワスカルの娘として宴席に駆り出された。
普段、すれ違う程度の使用人たちの前なら、黒毛のかつらも、褐色の塗り薬の色も、盲目の振りも、不自然に映ることはないだろうが、長時間、貴公子、貴婦人たちの目に晒されたとき、果たしてその正体を隠し通すことができるのだろうか。
未だ父の安否が分からず不安を抱いたままで、突然多くの人の目に晒されなければならなくなった恐怖は、コイリュルを震え上がらせた。
その朝、パパリャがいつもの数倍の時間を掛けて彼女の支度を整えてくれた。そしていつものように冗談めかして、
「このパパリャの腕を信じられないのですか。どこから見ても黒い髪と褐色の肌の美しいご婦人ですよ。コイリュル様は目を閉じて私に従っていればいいのです」
と言ってくれたことで、少し気持ちがほぐれた。さらに、盲目の貴婦人を案内するために介添えとしてパパリャが付くことが許されたのは何より心強かった。
パパリャに手を引かれて祝宴の席に姿を現したコイリュルの姿を見て、そこに集う貴族たちが一斉に感嘆の声を上げた。目が見えないことでワスカルが世間から匿うように育ててきたという『箱入り娘』は、彼らが想像していた以上に神秘的な少女だった。もちろん金の髪や白い肌を隠しているが、その容姿は他のどの貴婦人たちとも違う魅力を放っていた。
ワスカルは上機嫌でコイリュルを玉座の傍らに呼んだ。
「皆の者! これが朕の自慢の娘であるぞ。不具を抱えておるゆえ、ひとりで外へ出す事が出来なかったが、得も言われぬ美しさであろう。我が娘コイリュルは、朕の世を太平に導く女神である!」
目を閉じているのでワスカルの様子は分からないが、その声音や口調から酔っているのであろうことが分かる。
これまで決して外へ出てはならないと言っていたワスカルが、突然大勢の前に自分を晒し、さらに酔った勢いで自分の娘と公言し、兄皇太子の娘として敬意を払ってきた態度を一変させたことに、コイリュルは怒りで眩暈がしそうになった。
掌に脂汗が滲み出す。おそらく日よけ薬を塗っていなければ、その透き通るような肌に一気に赤みが差すのが誰の目にも分かっただろう。それでもなお、コイリュルは玉座の横で無数の目に晒されて立ち続けていなくてはならなかった。片手で服の裾を握りしめ、片手で横に立つパパリャの手を探り当てて強く握りしめた。
―― どうか、耐えてくださいませ ――
そう告げるように、パパリャがコイリュルの手を握り返して小さく振った。
無情にも宴は夜半過ぎまで延々と続き、その間コイリュルはパパリャの介添えを受けながら、たくさんの貴族たちににこやかに挨拶を交わさなくてはならなかった。笑顔を作りながらも心の中は哀しみと怒りでいっぱいだった。
「何故このようなことに。私はどうなってしまうの。ニナンお父様と逢うのはもう絶望的なのね。あのような場で私がワスカル様の娘だと宣言され姿を晒したのでは、もう取り返しはつかないわ。私がお父様に逢えなかったのは、お父様が皇帝になる時、私の存在が知られてしまえば国が滅びると言われていたからではなかったの。それなのに、皇帝に即位したワスカル様の娘だと知られても国は滅びないの。それなら私がお父様と離れて暮らさなければならない理由など無かったはずなのに」
館に帰り、パパリャに身体を拭いてもらいながらコイリュルは、徐々に放心状態から我に返り、やがてそう叫ぶようにパパリャに訴えた。
「さぞかしお辛かったことでしょう。私にも何がなんだか分かりません。怒りの前に、あまりにも謎が多くて、ワスカル様は冗談をおっしゃっていたのだと信じたくなってしまいます」
「あのような大勢の前で放った言葉は、例え冗談であっても真実になってしまうわ。ワスカルは私を騙したのよ。本当はお父様はとっくに亡くなっていて、異質な容姿を持つ私の噂を聞いて自分の許に引き取り権力のために利用しようとした。皇帝となった今、今度は私を使って自分の神聖さを人々に知らしめようとするわ。あの男は、そのうち身ぐるみはがした私を民の前に晒すかもしれない」
「そんなこと! コイリュル様、お疲れになっているんですよ。だからそんな突拍子もないことを考えてしまうのです。ともかくお休みくださいませ」
「パパリャ!」
何も纏っていない白い裸体をパパリャの胸に押し当てて、コイリュルは泣きじゃくった。散切りにしていた金の髪は、最近、朝の鍛錬にも身が入らなかったため背中の中ほどまで伸びてきていた。伸びるたびに輝くような色艶を増していく不思議な色だ。
―― 身ぐるみはがした私を民の前に晒すかもしれない ――
疲れから妄想を抱いただけに過ぎないだろうが、先ほどのコイリュルの言葉が蘇り、パパリャは足元から悪寒が這い上がってくるのを感じた。もしもそんなことになったら……。
パパリャまで不安を覚えたら共倒れになってしまう。パパリャは何度もかぶりを振り、震える白い身体を包んだ。そして壊れ物に分厚い布を幾重にも巻いて保護するかのごとく、両腕と上半身でしっかりと抱え込んだ。




