2、 嵐の前の静寂 (4)
チュキス・ワマン以下数名の貴族が、正妃の命を狙ったとして捕えられたのは、正妃の一行と彼らが遭遇する寸前のことだった。先頭に立って反逆者たちを制したのはティト・アタウチである。チュキスははじめ、同胞と思っていたティトが何故、自分たちと対峙しているのか分からなかった。
「貴様、それでも『ハトゥン・アイユ』の一族か。裏切者め」
「裏切者はどちらだ。貴様こそ、ワスカル殿下の臣下でありながら、殿下を裏切るとは言語道断」
古来からの一族を守る者、新しい時代に期待を寄せる者、民の中に、それぞれの想いが複雑に交錯している事が明らかになった事件であった。
チュキスの率いた反逆者たちはクスコで直様処刑され、正妃はティトたちに護られて無事に都に入城した。
この時、ワスカルは母の口から北の実態を聞かされることになる。北の暮らしに良い想いを抱いていなかった正妃ラウラ・オクリョの怨恨がその中には多く含まれていたが、チュキスの裏切りに遭ったワスカルは、その整合性を確かめようという冷静さを欠いていたのだ。
「北の一行はこの私を欺き、父の遺体を押し付けたあと北に引き返し、アタワルパを擁立してキートという国を築くつもりだ。クスコは皇帝たちの骸を葬る墓場となり、生者はキートに移って栄えようという魂胆か。寝ぼけたことを。兄上ニナンに次ぐ地位を持つのはこの私、ワスカル以外にない。
父上の遺体を迎えたあと、付き従った者はすべて処刑せよ。ひとりも北へ返してはならん。王徴を頭に戴くのはこの私だ。アタワルパが動く前に私の即位を行うのだ」
歴代の皇帝が揃い、母も自分の許に居る。もはや北に弱みを握られることもない。戴冠を強行するのを阻む要因は何ひとつないことが、ワスカルを強気にさせていた。
「コイリュル様、街で騒動が起きているようです」
遣いから帰ってきたパパリャがコイリュルに怯えた顔でそう告げたのは、ちょうどチュキスたちが捕えられて都に連れて来られたところを目撃したからだった。数人の貴族が揃って手を縛られて引き連れられている様は、庶民の目にはかなり衝撃的に映った。貴族は庶民の秩序の手本である。ましてや位の高さは服装や装飾ではっきりと判る。パパリャにも、捕えられた貴族が皇族の側近であることなど一目瞭然だった。
「騒動って」
「何やら宮中で諍いがあったようなのです。そのうち、この館にも知らせがあるかもしれません」
先日、ワスカルが嬉しい知らせを持ってきてくれたばかりだというのに、何故そんな不穏なことが起きるのだろう。コイリュルはどちらを信じていいのか分からなくなっていた。
「お父様……。ニナンお父様は、ご無事に都に到着されるかしら」
コイリュルは胸元を握りしめてため息を吐いた。
「コイリュル様。そうであると私も思いたいのですが、ここで慰め合っていても始まりません。確かなことが判るまで、憶測はかえって貴女を追い詰めることになります。これから私が頻繁に街を訪れて情報を探りましょう」
不安な気持ちを何とか押さえて、コイリュルはパパリャに縋った。
「お願いよ、パパリャ。私はどんなことでも受け止めるわ。だから正しいことを教えて頂戴」
縋りつくコイリュルの肩に手を回して、パパリャは「はい」と力強く返事をした。
それからの動きはあまりにも慌ただしく、パパリャが探るまでもなく、コイリュルの館の使用人たちが不安を露わにして語る噂話で、大方のことを知ることができた。
皇帝がクスコに帰還した。大勢の家来が担ぐ輿の上に胡坐をかいて、堂々たる姿勢で前を見据えてクスコの中心通りを進んでいく皇帝の姿を目の当たりにしたとき、違和感を感じない者はいなかった。肌の色は黒ずみ、目に不自然な金の眼帯をして、輿が大きく揺れてもまるで姿勢を崩さない。
彼がすでに生者でないことは誰の目にも明らかだった。
ワスカルが北の裏切りに失望したのと同じく、民の衝撃は大きかった。待ち望んだ皇帝の帰還を祝おうと総出で繰り出していた都の人々の歓声は、徐々に止み、次第にブツブツという不満げな呟きに変わり、やがて怒号や罵声や号泣へと変わった。
「サパ・インカはどうした」
「陛下はいつ亡くなられたのだ。なぜ我々には知らされなかったのだ」
「我らの上には、もう太陽が照ることはないのか」
「宮殿は、民の心を蔑ろにするのか」
騒動は皇帝の輿を追って宮殿の前へと押し寄せた。皇帝の輿が中へ消えても騒ぎはますます激しくなるばかりだ。騒ぎが更なる不安を呼び、また大きくなり、都中にこだました。四方を山に囲まれた窪地であるクスコでは、その声は都を取り囲む山肌で反響し、雷鳴よりも激しい大音響となって地面を揺らした。
しばらくして、宮殿から大神官が進み出てきた。そして黄金の錫杖を頭上に高々と突き上げた。陽光に反射した錫杖の眩い光に、人々は騒ぎを止めて見入った。辺りが静かになったのを見極めて、大神官は声を張り上げた。
「サパ・インカ、ワイナ・カパック様、崩御。次期皇帝は、クシ・トパ・ワルパ ― ワスカル ― 様なり。
これより都は喪に服し、喪が明けて早々、新皇帝の即位を行うこととする。謹んでワイナ様の死を悼み、我らがサパ・インカの魂の復活を願う。
同時に新皇帝クシ・トパ・ワルパ様の御代が、さらに輝かしき時代となることを願う」
大神官の言葉に押し寄せていた人々が次々に膝を折ってその場にひれ伏した。彼らの前に皇帝の亡骸が晒されたのは衝撃的な出来事だったが、北で亡くなった皇帝を都へ帰すためには仕方ないことなのだ。何時かは訪れる世代の交代を目の当りにしただけのことだ。
愚直な人々は、大神官の言葉を素直に受け止め、安心を得た。喪中にあからさまな喜びを表すことは出来ないが、新皇帝の時代に早くも心を躍らせる者まで居たのである。
この喪の期間に宮殿内で密かに、皇帝に付き従ってきた使者たちが処刑されたことなど、人々は知る由もなかった。
コイリュルの耳にも街での出来事は届いていた。しかし、父ニナン・クヨチの死とそれに関わる今後の運命を聞かされるのは、ずっと先になる。いくらパパリャでも、街の人々が知る以上のことを、知り得ることはできなかったからである。




