2、 嵐の前の静寂 (3)
皇帝と皇太子を迎えるべくその準備に奔走していたワスカルの元へ、またひとり使者がやってきた。
使者は北方の宮殿から正規に遣わされた先の使者とは異なり、皇帝の正妃が個人的に遣わした者だ。正妃ラウラ・オクリョは、ワスカルの実の母である。コイリュルを育てた伯母とニナン・クヨチの母の妹に当たる。そしてニナンの母が亡くなったあと、正妃の座に就いたのである。
皇族は、女系の血族の繋がりを非常に重んじる。そもそも、ワスカルがニナンの娘の後見人となったのも、同じ兄でありながら、ニナンの地位は尊重し、アタワルパに敵愾心を燃やすのも、この血族の繋がりを重んじるがゆえだ。
正妃が皇帝とは別に遣いを寄越すとは。おそらく皇帝の妃たちの間で、この血族間の確執が強まったのであろう。深刻な争いの場合もあるが、多くは女同士の感情のぶつかり合い程度のものである。感情の起伏の激しい母のこと、今までもこのようなことは度々あった。皇帝の帰還という大事が無ければ、さして問題にもしないのだが。
「申し上げます。正妃ラウラ・オクリョさま、陛下の一行に先立ち、首都へご到着の予定にございます。つきましては、近郊のウルコス・カリャまでお出迎えを願いたいと存じます」
「この大変なときに、何を我がままを申しておるのだ。気難しい母を持つと苦労する」
ただでさえ手が足りないと嘆いているときに、わざわざ出迎えを寄越せという母にワスカルは頭を抱えたが、それを無視すればますます面倒なことになるのは判りきっている。仕方なくワスカルは信頼の置ける数人の側近に正妃の出迎えを申し付けた。
ワスカルの命を受けた側近たちが、正妃の一行が待つウルコス・カリャに到着したのはその翌日であった。近郊とはいえ、急ぎ足でもまる一日掛かるほどの距離だ。にもかかわらず正妃は到着した側近たちをなじった。
「このわたくしをいつまで待たせれば気が済むのじゃ。急ぎ重大な報らせを持ってきたというに、その大切さなど何も分かっておらぬ。どれほど暢気なのか」
側近たちは、正妃の気が済むまで頭を垂れて小言を聞き続けなくてはならなかった。息子の不甲斐無さに対する苛立ちに始まり、これまでの北の後宮での不自由な暮らしの不満など、彼女の中に積もり積もっていたものを八つ当たりのように一方的に吐き出した。側近たちにはまるで関わりのない話を延々と並べ立てたあと、正妃はようやく、彼らをわざわざ都の外れまで呼び付けなければならなかった理由を話し始めた。
しかしその内容は、これまでの意味のない話に聴く力を閉ざしていた側近たちの耳に、突然鋭い刺激となって響いてきた。あまりの衝撃に側近たちは、正妃の話が終わってもしばらく、今聴いたことの内容を整理するために動きを止めていなければならなかった。
「何をぼんやりしておる。わたくしの話はそれだけじゃ。分かったらさっさとクスコに戻り、ワスカルにしかと申し伝えよ」
「はっ」
側近たちは一斉に返事をして正妃の滞在する館を飛び出した。しかし、急ぎようにも彼らの足には限界がある。途中、彼らの中で特に早足に自信のある側近が、仲間に申し出た。
「私が一足早く戻って伝えよう。そなたたちは無理をしなくていい」
チュキス・ワマンというこの貴族の早足は有名だった。仲間たちはほっと胸を撫で下ろし、チュキスに全てを託すことにした。
しかし彼らは気付いていなかった。チュキスという男が、ワスカルの出自である一族と対立する一族の出身であることを。家系に関わらず、ワスカルはチュキスの実直な人柄を信頼して傍に置いていたのである。
今回、正妃から得た情報はこの家系に大きく関わる事柄だった。チュキスの中で、個人の信頼よりも一族の絆を重んじる心が芽生えていた。
―― 一足早く戻って伝えよう ――
チュキスの伝える相手はワスカルではなく、同じ一族の者だったのである。
仲間たちよりも半日早くクスコに到着したチュキスは、宮殿に向かわず、自分の親類の館を訪れた。そしてそこに集う同じ家系の貴族たちに、正妃の話を告げたのだ。
「皇帝陛下が重い病に掛かられ亡くなった。北の貴族は陛下の死を伏せ、陛下のご遺体を生きているかのように見せかけて首都へ戻そうとしているようだ。
一行は、途中のトゥミパンパで皇太子ニナン・クヨチ様を伴い、クスコに到着次第、ニナン様の戴冠を行う予定であったらしい。しかし一行がトゥミパンパに到着したとき、ニナン様も陛下と同じ病に掛かられ、すでに亡くなられていたというのだ。
今、皇帝の玉座は無人となった。
北は、ニナン様が亡くなられたことで、無人の玉座に我ら一族の出自アタワルパ様を据えようと動き出したようだ。陛下のご遺体がクスコに安置された頃合いを見計らって、北で戴冠を強行するつもりであろう。
正妃様はそれを察し、ワスカル様に、ご遺体に付き従った北の貴族は裏切り者であるから、到着次第すべて抹殺せよとお命じになった。その様なことになってみろ、粛清は付き従った北の貴族のみならず、我らが一族全てに及ぶ」
一族の中に戦慄が走る。彼らの中で特にワスカルに近い位置に居る男に、その矛先が向いた。
「ティト、他の側近が到着する前にワスカルを暗殺せよ。他の者は急ぎ仲間を集め、正妃の一行を狙うのだ」
人がどこを拠り所とするか、誰を信頼するか。この時ほどその事が運命を大きく左右するものであると知る機会はなかっただろう。正妃ラウラの陰謀を聞いたチュキスは、血族のためにその裏を掻こうとした。しかしチュキスの計画を聞いたティト・アタウチは、皮肉にも一族の絆より主従の関係を重んじる人物であった。
ティトは急いで宮殿に赴き、チュキスの計画をワスカルに暴露した。
ワスカルはこの時はじめて、北で起こった出来事と、それにまつわる北の画策、さらに母の陰謀とその情報を得た臣下の陰謀を一度に聞かされる羽目になった。
「待て……。頭が整理できぬ。先ほどまで、父上と兄上がご帰還されるという喜ばしい報せに沸いていたのでは無かったか。あの母のことだ。単に気が触れただけかもしれぬ。真に受けることはない」
「殿下。最早それを確かめている暇はありません。それに…………。
確証が得られるまで殿下にはお伝えすることはできないと伏せておりましたが、皇帝陛下が亡くなられたのは事実のようです。先の『日の翳り』の折、皇帝陛下がお隠れになるという事を言い当てた神官が実は何人も居たのです。密かにその情報を確かめるために北へ遣いをやっていました。彼の報告では確かに皇帝は亡くなられたとのこと。ただ、その時点で何故、北が正式な報告をしないのか分からなかったので、殿下にお伝えすることができなかったのです。おそらく次期皇帝の戴冠まではニナン様をお守りすることを優先するつもりだったのだろうと。陛下のご遺体とニナン様が無事に到着されれば、殿下も納得されるとお察ししておりました。
しかしニナン様が亡くなられたにも関わらず、北が隠ぺいを続けるのは不自然です。正妃様のご懸念はごもっとも。折り悪く、それを聞いたチュキスが一族の者を焚きつけてしまいました。最早、動きは止められませぬ。
この先は、正妃様を狙うチュキスたちを捕え、陛下に付き従った北の一行を尋問するしか方法はございません」
「何故、このようなことに……。
しかも、そなたは何故一族に加担しないのか。これも一族のために私を懐柔する画策なのではないか」
「私は、一族よりもワスカル様を信じております。クスコは亡霊の街。貴族は歴代のミイラに支配された家系で息づいている。(※)おかしな話です。ワスカル様には、是非とも次期皇帝の座を受け継がれ、この悪しき慣習を取り払っていただきたい。私が望むのはそれだけにございます。
血族を重んじ、その後ろ盾を得てさらにその絆を強めようとする北の保守派は、敵にございます」
ティトの言葉は、実はワスカルの理想であった。常々ワスカルが語ることを傍で聞いていたがゆえの受け売りだった。ワスカルはティトの言葉で本来抱いていた想いを取り戻しつつあった。
「ティト、チュキスらを捕えよ。母上を無事に都に迎えたあと、北の一行の処分を検討しよう」
ティトは深々と頭を下げて速やかに部屋を出て行った。
残されたワスカルはしばらく考えに耽っていた。
やがてその心の中に、本来の自分が抱いていた気高い理想が蘇り、同時に自分を蔑ろにした者たちへの激しい憎悪が湧き上がってきたのである。
※ インカの貴族は、十を超える家系(派閥)に分かれていました。その祖は歴代の皇帝であり、新しい皇帝が生まれるたびに家系が築かれました。この家系の主は亡くなった皇帝のミイラでした。つまり、一族はミイラに仕え、ミイラのために結束していたのです。土地などの財産も、持ち主はミイラです。ひとつの家系が所有する土地や財産は膨大なものであり、新王が獲得できる領土は、この時代、ほとんど残っていませんでした。ワスカルにはその伝統を覆そうという考えがありました。




