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1、 クイ (2)


 ガサガサッ。

 前の壁より高くそびえている木の枝が揺れた。

(小鳥? いえ、コンドル?)

 その茂みにいるのは明らかに小鳥よりもずっと大きい物だ。

 パンッ。

 クイは機転を利かせて手を大きく打ち鳴らし、周りに集まっていた小動物たちを追い払った。コンドルならクイの大事な友達が襲われてしまうだろう。この国では神の遣い、コンドルには、喜んで動物を差し出す人がほとんどだが、クイはこんなところもこの国の普通の人とは違う感覚を持っていた。伯母が嫌うのは、そんなところもあるのかもしれない。

 ガササ。

 また大きく枝がきしんだ。枝の陰から突然、ニュッと小枝が伸びる。その小枝の先には藁のサンダルがひっかかっている。

「人間の足?」

 クイに見取られたのも知らず、小枝の持ち主はまた茂みにそれを引っ込めた。

「誰なの?」

 クイは悲鳴のような声を上げた。茂みの陰で「チッ」と舌を鳴らす音がする。

「誰?」

 クイは、片手に干し芋、片手にスープの器を持ったまま立ち上がり、さらに声を張り上げる。

「静かにしてくれ。他の人が来る!」

 子どもの声。まだ甲高い、男の子の声。

「だれ……」

 クイは言われたとおりに声を潜めて優しく訊き、そろりと枝の覆いかぶさる石壁に近づいていった。

 ニュッと、茂みから顔が飛び出した。

 赤い羽根を真ん中に一本だけあしらった組みひものバンドを広い額に巻きつけた男の子の顔。日に焼けた黒い顔に黒い大きな瞳が光っている。その目はじっとクイを睨みつけて、「騒いだら承知しないからな」というように警告を送っていた。年のころはクイより少し幼い七、八歳だろうか。

「大丈夫よ。誰もいないわ」

 クイは碧い瞳を優しく細めて男の子に呼びかけた。しかしなおも男の子は慎重に辺りを見回して警戒した。

「待っていて。今私が外に行くわ」

 クイはスープの器と干し芋を持ったまま壁に沿って歩き、一番左端にある出口から外に出た。

 クイが外に出ると、男の子はもう木の下に降りていて、強がるように唇を噛み、仁王立ちになってクイのほうを向いていた。クイを待っているくせにまだ警戒の色を見せているその少年のチグハグな仕草に思わず笑いが漏れそうになる。クイは下を向いてククッと笑いを吐き出してから男の子に近づいて行った。

「こんにちは。私はこの屋敷の下働きだから、あなたのことを聞くつもりはないわ」

 ならば、なぜこの少年に会いに来たのだろう。クイは言ったあと、自分に疑問を投げかけた。

「ねえ、スープと干し芋、いる?」

 クイは唐突に手に持った器を差し出していた。

「お前、何だ?」

 少年は器には目もくれず、仁王立ちのままクイの顔を睨みつけている。

「だから、私はこの屋敷の……」

 言いかけたとき、ハッと何かに気付いてクイは顔中に後悔の色を滲ませた。そして慌てて踵を返し、走り去ろうとしたクイの腕を、少年がぐっと掴んだ。

「この屋敷に変な奴がいるってうわさを聞いて、見に来たんだ。

 お前、魔物か?」

 少年はぶっきらぼうに容赦ない言葉を浴びせる。黒い瞳はするどく冷たく光って、クイを映す。

「お願い。黙っていて。見なかったことにして」

 クイは顔を覆ったまま、かすれるような声で泣き叫びながら、少年の腕を振り払おうとした。しかし、少年はものすごい力でクイの腕を握り締めて離さなかった。クイが振り払おうともがくほど、少年はクイの腕を掴む手にますます力を入れて握り返してくる。

 観念したクイは、少年に掴まれた腕をだらりとのばしたままその場にしゃがみこみ、片方の掌で顔を覆って肩を震わせて泣き伏した。

 伯母にあれほど口すっぱく言われていたことを、こんな風に破ってしまうことになるとは。もう伯母に折檻されて、暗い地下室に閉じ込められるに違いない。

 小さく丸まって泣きじゃくるクイを見て、少年はさすがに気が咎めてきた。掴んだ腕をゆっくり放すと、今度は一緒にしゃがみこんでしばらくクイの震える肩を眺めていた。

「ごめん……」

 少年は聞き取れないような声でもごもご言った。

 クイはまだ動かない。

「ごめんよ。悪かったよ」

 少年はクイの肩をグイグイとゆすった。クイは少年の手を振り払って頭を振りながら、なおも泣き続けた。

「ボクは別に、君をやっつけにきたわけじゃない。ただ、何でも知りたがる癖があるんだ。母さまにいつも注意されるのに止められなくて」

 今まで自分の怖ろしい運命を決める怪人のように思えていた少年が、突然子どもっぽい口調でおろおろと話し出したのを聞いて、クイは涙と埃でぐちゃぐちゃになった顔をゆっくり上げた。

「もうボクの知りたがりの心は満足したよ。もう何もしない」

 少年はうなだれた。

「ほんと?」

 クイは懇願するような顔で哀れに少年を見つめた。少年の方も泣き出しそうな顔になって大きく頷いた。自分の好奇心から起こしたことがこんなにもこの少女をうろたえさせてしまったことがどうしようもなく悲しくなっていた。

「魔物は泣かない。君は人間だよ」

 クイはようやく安心して、右手の甲で顔をゴシゴシとこすった。しかし急に不安になって辺りを見回した。幸いにもこの騒動を見ていた人はいなかったようだ。それもそうだ。街外れのうらさびしいこの辺りを通るものはめったにいない。だからクイはここに預けられているのだ。

 クイは大きくため息をついた。

「もう戻るわ。私の事は言わないって約束してね」

 クイは最後にまた念を押した。

「分った。約束する」

 クイが屋敷の方に向こうとすると、少年が唐突に訊いた。

「ねえ、君は友達いないのだろう?」

 クイはなぜ少年がそんなことを訊くのか分らず、眉をしかめて答えた。

「そうね。人間の友達なら屋敷にひとり。ほかの人には会ってはいけないから」

「じゃあ、二人目の友達になってやるよ」

 クイは驚いた。さっきまで自分を泣かせていたというのに。『やるよ』という言葉にはカチンと来たが、クイはこの少年の素朴な感じが気に入った。フッと笑顔になると、

「分ったわ。友達になって『あげる』」

 挑戦するように少年にそう言った。

「また来てもいい?」

 母親に甘えるような声で少年が訊く。

「いいけれど、私は食事の時以外は一日壁磨きをしていて会えないわ」

「じゃあ、今日みたいに食事の時間に庭に出てくるのをこの木で待っているよ」

 クイの心は躍り上がっていた。自分と言葉を交わせる人は一生、パパリャひとりだと思っていたし、そのパパリャに会えるのも食事を取りに行く一時だったから。

 たわいもないおしゃべりをしたり、街の様子を聞いたり、少しなら屋敷を抜け出して遊びにいくこともできるかもしれない。

 そんなクイに、少年が遠慮がちに付け足して訊いた。

「友達として知りたいんだけど、君はどうしてそんな碧い目なの?」

 少年の「知りたがりの癖」は、まだ満足していなかったようだ。

 でも少年にさっきのような悪意はないことが分って、クイは安心して打ち明けた。

「私にも分らないの。生まれたときからこうだったって。肌の色も普通の人よりずっと透き通っていて、山の雪のようだし、髪も……」

 クイは言葉を切った。しかし少年はその言葉で、はっとクイの黒い髪の下から一筋見えている金色の毛に気付いた。

「ふ、うん。君のお母さんはどこか遠くの国の人なのかな?」

「いいえ。私は知らないけれど、伯母さんの話では、あなたと同じ髪の色で同じ目の色をしていたはずだわ」

 クイは悲しげにうつむいた。

 変わった容姿をもったために、街外れのこんな寂しいところで人と会うことも許されないクイの思いが少年には痛いほど伝わってきて、自分のいたずらを深く反省した。

「クイー!」

 屋敷の奥から伯母の声がかすかに聞こえてきた。

「私はもう行かなくちゃ」

「ああ、また来てやるよ」

 少年の自覚のない横柄な言葉に、クイは苦笑した。

「そうだ。あなた、なんて名前?」

「ボク? クッシリュ」

「そう! 私がクイ(ねずみ)で、あなたがクッシリュ(猿)。なかなかいい組み合わせだわ! また、会いましょう!」

 クイは転がっていた干し芋と器を拾い集めると、急いで中へと姿を消した。

 今の短い時間の間に起きた出来事を全て頭の中で整理できないまま少年クッシリュは、クイの姿が消えてもしばらくそこに立ち尽くしていた。



―― 街外れの屋敷には、化け物が住んでいる ――

 そんなうわさが、町ではまことしやかに流れていた。大人たちは相手にしないうわさも、こどもたちの間では常識のような話になっていた。

―― その化け物は黄金のプーマのような(たてがみ)で、死者のような碧い顔と月に鈍く光る鋭い瞳 ――

 うわさはその胎内でこの世のものとは思えない怪物の姿を作り上げていった。

 人一倍好奇心の旺盛な少年が、

「化け物を見てきてやる」

 と宣言し、勇ましく出かけていったあと、町の子どもたちは英雄の帰りを今か今かと待ち焦がれていた。クッシリュの姿を見た途端、たくさんの彼の仲間が一斉にかけよって、クッシリュの報告をせっついた。

「ただ庭にプーマがいただけだった」

「ただのプーマなのか? それともこんなにでかいやつか?」

 クッシリュと同じくらいの背丈の少年が、大きく頭の上に輪をかいて伸び上がった。

「ただのプーマだ。それも人間に飼われて、すっかり臆病になったやつだ」

 子どもたちの顔が次々曇り、大きなため息があちこちでもれた。

「本当に行ったのか? お前」

「実は途中で怖くなって引き返してきたんじゃないか?」

 子どもたちの流行の話題は、ちっぽけな少年のばかげた報告でおしまいになるわけにはいかなかった。

「嘘じゃないさ。うわさが大嘘だったんだ」

 クッシリュがどんなに訴えても、仲間たちはつまらない事実を話すクッシリュのほうをけむたがった。英雄は突然うそつき呼ばわりされた。

「いいさ。ボクは大事な秘密を守るんだ」

 泥にまみれて大勢の仲間とかけまわっていた少年は、自分の背が少し高くなって、大人に近づいた気分だった。そしてその日から、かつてのクッシリュとは違う生活が始まった。

 昼間、街でクッシリュの姿を見る者はいなかった。仲間から離れた彼は、唯一の友達に会うために毎日街を抜け出した。



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