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金の星 ~インカ終焉の女神~ (第一部)     作者: yamayuri
第三章 太陽を喰らう影
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2、 嵐の前の静寂 (2)


 ワスカルは苛立っていた。

 それというのもここ数日、北からの使者がひとりもやってこない。北での様子が全く分からないことに不安が増しているからだ。そもそも皇帝が、皇太子とアタワルパという、兄弟の中でも重要な位置を占めるふたりの兄を連れて北へ行ったことにワスカルは疑念を抱いていた。さらに皇帝がクスコを棄て北に首都を建設しようとしている噂を聞き、疑念は色濃くなるばかりだ。実際にクスコ近郊にある聖なる石切り場の石が、宮殿の建築のために大勢の人夫の手によって北に運ばれていった。それはそれは大変な騒ぎであった。人夫を集めるためにワスカルもどれほど骨を折ったことだろうか。割に合わない強制労働に無償で力を貸してくれる自治体などなく(※)、ワスカルの私財を投じて皇帝のために尽力したというのに、北は異民族の反乱鎮圧に忙しく、ワスカルの負担に対する感謝の意も表さなかった。

 クスコにこだわりがあるわけではない。北へ遷都する必要があるのなら、それも時代の流れと受け止めよう。しかし、兄弟のうちで自分だけがこの古い窮屈な都に留め置かれ管理を任され、皇帝に従った兄弟たちは信任篤く大いに活躍の機会を得ている。彼らのために何故、自分は我慢させられているのか。それが面白くなかったのである。

 もちろん、皇帝ちちが、数えきれないほどの息子の中で、皇太子に継ぐ信任を自分に置いていると思えば気持ちも収まるが、それなら何故、自分よりも格下であるはずのアタワルパが北の軍部を一任され華々しい活躍をしているのか。アタワルパは、ワスカルよりも年長ではあるが、母の身分はワスカルの方が上である。つまりワスカルは、皇太子に次ぐ継承権を持つ者として重んじられなければならないはずなのだ。


 遷都が完了するまではクスコが首都である。今首都を管理するのはワスカルである。従っていくら皇帝が居るとしても北での出来事をワスカルが把握するのは当然のことである。その北が最近、公然と無視を続けているのだ。これは由々しき事態だった。


 ワスカルの不安が増しているのは、さらに原因があった。

 先日、日中に日が翳り、まるで夜のように辺りが闇に閉ざされた。それは短い間のことで、建物の中に居て気付かなかった者も居たくらいだ。しかし、太陽の動きを識っていれば、明らかにおかしな現象であった。

 首都周辺には天文観測所がいくつかあり、学者はこの事象を観測し様々な見解を突き合わせていた。さらに歴史伝承に詳しい語り部も交えてこの事象についての会議が何度も行われたのである。同時に神官による占いカルパも行われた。呪術師たちは総出で魔除けの祈祷を行ったのである。

 そのような非常事態において、北からの連絡は一切ない。クスコほどの叡智が向こうに揃っていないのは明らかだ。にも拘らず、何も打診がないのは流石におかしかった。


「奴らは何を考えている。もしや老いた皇帝に代わって、すでに皇太子が実権を握っているのでは。いや、皇太子を傀儡かいらいにして、実質は軍部の信任篤いアタワルパが支配しているのではないだろうか。不信心なアタワルパなら、あの現象を不思議とも思わないだろう」


 もはやワスカルの疑念は疑念に収まらず、皇帝と、それに従う北の貴族に対する恨みへと変わりつつあった。


 ちょうどワスカルの心を見透かしたように、北からの使者が到着したのはそのすぐあとだった。使者は久しぶりの皇帝と皇太子の帰還を伝えたのだ。


「なんと、父上と兄上がご帰還を。これは大変だ。さては先日の太陽の異変に大事を感じられたのであろう。ようやく首都クスコの重要性を実感されたのかもしれぬ。ともかくご高齢の父上にゆっくりと滞在していただくために宮殿を整えねばならぬ。長年使っていなかったので、これは大掃除が必要になるぞ」


 使者は、皇帝が亡くなっていることを口にしなかった。ただ皇帝がクスコに帰還することだけを伝えるために遣わされていた。それが遺骸かそうでないかには非常に重要な違いがあるのだが、敢えてそれを伏せたのは北の画策に他ならなかった。

 普通なら皇帝の突然の帰還の理由を問いただすところだが、偶然にも先の異常現象が、ワスカルの中でその理由と結びついてしまったのだ。取り立てて厳しい追及もされず、使者は命拾いをした。


 ワスカルはただ素直に『父親の帰還』を喜んだ。それは長年父親に見放されてきたと思っていた息子の純粋な喜びであった。まだほんの若いうちに首都の管理を押し付けられ、褒められることも無ければ忠告を受けることもない、そんな忘れ去られた息子の寂しさが、実は彼の心の大部分を占めていたのである。



 意気揚々と、ワスカルはコイリュルの住む館を訪ねた。

 逢えなかった父親に再会できる者同士、喜びを分かち合いたかったのかもしれない。コイリュルにとっては生まれて初めて逢うにも等しい。父親の帰還を知れば、自分の比ではないほどの喜び様に違いない。美しいその顔に満面の笑みが浮かぶのを見てみたかったというのもある。


 ワスカルの前だけでは、コイリュルは素の姿を隠さずにいられた。白い細い身体に映える淡い暖色の衣をまとい、胸元や耳朶に薄紅色のムユ貝の装飾を身に付けた姿は、国中の美しい娘だけを集めた太陽の巫女の館アクリャワシでも見つけることはできないだろう。短い金の髪に囲われた小さな白い顔は、まさに光り輝く太陽か月を思わせた。

 ワスカルが初めて『クイ』という少女に出会ったときにも、彼の想像力が及ばない美しさに目を見張ったものだが、彼女は成長するたびにワスカルの想像を覆す。その姿を目に出来るのはいまのところ、傍付きの侍女パパリャと自分しかいないのだと思うと、言いしれない優越感に浸ることができた。


「お久しぶりにございます。お父様。ご機嫌麗しく、何より」


 コイリュルは、例え偽装であってもワスカルのことを『父』と呼び、敬意を払う。本当の父の血筋であり、今は彼女の後見人であるのだから、ワスカルは『父』には違いなかった。

 身内にことごとく裏切られたように感じている今は特に、父親として敬意を払ってくれるコイリュルが唯一、家族の暖かさを感じさせてくれる存在であった。


「ああ。確かに久しぶりになってしまったな。ここのところ色々な事件が立て続けに起こって、ここを訪問するどころではなかった。しかし、そなたの顔を見たら、その疲れも癒された」


「それは大変でした。わたくしがお父様のお疲れを癒すことができるのなら何より嬉しいですが」


「そなたの姿を見るだけで、十分に癒される」


 ワスカルの言葉に、コイリュルは気恥ずかしくなり、俯いた。


「今日は、そのお礼と言っては何だが、そなたが待ち望んでいた報告を持ってきた」


 コイリュルは怪訝な顔を上げた。


「ニナン・クヨチ様が、クスコに帰還されることとなった」


 コイリュルの顔にみるみる喜びが滲み出てきた。


「……本当、です、か」


「私はそなたの後見人に過ぎない。そなたのお父上はニナン・クヨチ様、ただおひとりだ。お父上に逢いたいであろう。いくら隠して育てなくてはならなかったとしても、ニナン様もどれほどそなたのことを心配なさっていたことか。

 これまで北を離れることができなかったのは、お立場上、仕方のないことだ。けれど、今回久方ぶりに皇帝がご帰還されることになったのだ。従ってニナン様もようやくクスコここに戻られることができる。まず最初にそなたに逢いたいに違いない。

 ここはニナン様のお屋敷だ。殿下はここに滞在される。そなたにはこの館の留守を預かっていた者として、ニナン様にご挨拶する機会が与えられよう。あくまで私の娘としてだが。けれど殿下もそなたの成長をどれほど楽しみにされていたことか。美しく成長したそなたの姿をご覧になれば、さぞお喜びになるだろう」


 コイリュルの目に涙が溢れ、一粒零れ落ちた。それ以上の涙を落とすまいと唇を噛みしめて耐えているが、今にも喜びの涙が溢れて流れそうだ。そのままコイリュルは静かに頭を下げた。


 喜びを分かち合いたいなどと、浅はかな考えだったとワスカルは気付く。コイリュルにとって父親との再会は、これまで生き抜いてきた意味を知ることと、今後も密やかに生き抜いていくための力を与えてくれる重要な意味を持つものなのだ。


 この小さな娘がひとりで耐えてきた想いに、ワスカルは改めて心を動かされたと同時に、今この哀れな娘が頼るべき者は、自分しかいないのだという自負を、どこかで小気味良く感じていた。



 ワスカルという青年の中に、満たされない父親への想いがあり、ようやくそれが解消されようとしている。コイリュルに対する慈愛に満ちた言葉は、彼のそんな心理の裏返しに過ぎなかった。

 彼が裏切りを知るとき、その切実な想いは膨大な憎悪へと変わる危うさを秘めていることなど、コイリュルは知る由もない。しかしコイリュルは、その不気味さをどこかで感じ取っていた。本当なら喜びを顕わにして泣き叫びたい気持ちであるが、ワスカルにはそれができない、やってはいけないことを、本能で感じ取っていたのだ。





 (※) インカをはじめとするアンデス世界では、例え皇帝や領主であっても、民間の協力を得るときには、それに見合った報酬を払ったり、恩情を具体的に示さなければなりませんでした。




 

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