2、 嵐の前の静寂 (1)
2、 嵐の前の静寂
館のいちばん奥に小さな庭がある。使用人たちはそこに入ることを禁じられていた。館の主のプライベートな空間だ。毎朝夜が明ける頃、静かな空間にさくさくと地面を踏む音がする。時折カツカツと何かを叩く音がする。朝の静寂の中ではその音は本当に微かではあるが、館中に響いていた。館の者は、鳥がやってきて餌をついばんでいる音だと疑わなかった。実際、朝は多くの鳥が入れ替わり立ち替わりやってきては、けたたましい声で啼いたり、屋根に葺いた萱の上を歩き回るのだから、珍しいことではなかった。
使用人たちが誰も知らない空間で、皆がまだ寝静まっている時間にそこに居るのは、館の主だ。しかし誰かがその場を覗き見たら、わが目を疑っただろう。年若い戦士が透き通るような金の髪を乱して盛んに斧を振っているのだから。その構えは力強いが、華奢な体を柔らかくくねらせ、輝く金糸がうなじの辺りで揺れる姿は、優雅な舞を舞っているようだった。彼はただ無心に石斧を振るう。上から下へ、右から左へ、時に右上から左下、左上から右下へと。空を切り、あるいは立ち木の幹に斧の背を打ち付けて手応えを確かめる。
日々の鍛錬の成果か、彼の腕は、その細い身体に見合わないようなしっかりとした肉を付けていた。短い金の髪が舞い踊ると同時に、飛び散る汗が僅かに届き始めた朝の光の中にときどきキラキラと輝いた。
朝日が直接庭に差し込んでくると、彼はその手を止めて庭の端に腰を下ろし、用意されていた布で額や身体の汗を拭い、別の布で石斧の刃を磨き始めた。
そのとき、彼だけの空間に人影が近づいてきた。彼は気付きもしないで夢中で道具の手入れをしている。人影は彼のすぐ脇に屈み込み、彼の前に茶器を差し出した。
「ありがとう」
鳥の囀りのような高い声で戦士は答え、道具の手入れを中断して茶器の中の果物を手に取って頬張った。
「熱心ですね。そんなに毎朝鍛錬なさって、兵士にでも志願するつもりですか?」
館の主に接するには随分と軽い口調で、果物を運んできた人物が問い掛ける。すると戦士は果物を口に運ぶのを止めて、中空を見上げた。
「戦いたいわけではないの。これが私を生き返らせてくれた方法だから。昔、大切な友達が教えてくれた、私が私であるための秘密の練習なの」
目線を、中空から問い掛けた人物に移して、少年は微笑んだ。いやその顔は少年では無かった。短い髪もその服装も、鍛えられた腕や武器の扱いも戦士を思わせるが、彼……彼女の顔は、虫も殺さないような繊細な少女のものだった。
「まあ、滅多に外に出ることはできませんし、外の空気を吸える場所はここしかありませんからね。少しでも身体を動かさないとそのうち根が生えてあの木のようになってしまうかもしれません」
そう言って庭の真ん中に生えている細い木を指す相手に、少女はけらけらと笑い声で返した。
「ほんと、パパリャっておかしな例え話を思いつくわね。でも本当になりそうでちょっと怖いわ。こうして身体を動かさないと、私はあの木の横に根を生やしてしまうかもしれない」
「これならまだ、昔の方がマシだったかもしれません。自由に外に出ることは出来なかったとはいえ、貴女の様子を監視している者はいませんでしたから。しかしここでは、貴女が少しでも外へ出ようとすれば警護の者がすぐに血相を変えて引き止めます。こんな窮屈なことってありませんよ。まるで家の外から出ることを許されない鼠※」
「懐かしい名が出てきたものね。そうかもしれないわ。私は『金の星』という名を与えられた鼠なのかもしれない」
コイリュルがパパリャとともに、ワスカルに与えてもらった屋敷に移り住んで数年が経っていた。育ててくれた伯母はそのあとすぐに儚い人となり、あの屋敷も無人となったそうだ。おそらく伯母は、自身亡きあと家が絶えることを見越して、コイリュルをワスカルに託そうと考えていたのだろう。運が良いのか、コイリュルの成人が丁度良いきっかけとなったのだ。路頭に迷っていたかもしれないと思えば有難いことなのだろうが、コイリュルがこの館の主となったこと、身分を偽っていること、さらにはその容姿さえ暴かれてはいけないものだとされているのは、伯母の家よりもコイリュルの生活を縛ることとなった。
コイリュルの自由は、この奥庭で好きなように武術の稽古をすることぐらいしか無かったのだ。
他人に明かしてはいけない容姿なら、女性らしく振る舞う必要も無い。長い髪を切り落とし、身軽な貫頭衣に身を包んで思う存分身体を動かす。これほどの解放感は無かった。そしてその稽古は、唯一本当の姿を知りながら友達となってくれたクッシリュに教えてもらったものだ。武術の稽古は、少女クイに戻ってクッシリュとの思い出に浸る最も愉しい時間だった。
誰にも知られることなく、コイリュルの容姿はまさに絶世の美女と呼べるほどに美しくなっていた。本来の透き通るような白い肌はますます張りを増して、滑らかで艶やかなビクーニャの毛織物を思わせ、短くても輝く金の髪は、皇帝の胸元に光る装飾のようだ。そして清んだ蒼の瞳は、丁度太陽が昇り始めて夜の闇をかき消した直後の清々しい蒼空を思わせた。この国の民が『美しい』と表現するものを、遥かに超えた神々しい『美』であったから、おそらく誰もが彼女を突然目にしたら、『美しい』よりも『畏ろしい』という感覚を抱くであろう。それほどまでに一般の人々との違いが際立っていたのである。
そんなコイリュルの成長をずっと傍で見守ってきたパパリャは、彼女が人離れした美しさを増すたびに心が痛んだ。美しくなればなるほど、彼女の容姿は人々に畏怖を抱かせる。ましてやその地位は人々の頂点に達するほどに高い。彼女の神聖さを純粋に敬うだけなら良いが、おそらく今の世は、そんな純真な心を失い掛けている。これまで平穏に見えた世の中が、底辺から四隅から少しずつ崩れ始めていることを、誰もが感じ取っているのだ。不安を抱く人々は必ず神々しいものを崇めたくなる。崇めるだけならいいが、不安の渦から抜け出そうと必死にもがく大勢の人々が彼女の身体に一度に縋りつき、彼女をその渦の中へと引き摺り込んでしまうことも大いに考えられるのだ。そうならないためにも、彼女はその金の髪を黒毛のかつらの中へ押し込み、白い肌に褐色の薬を塗り、盲目の振りをして碧い目を隠さなければならない。皮肉にもそれが、彼女が生き残る唯一の道であることに気付いていた。
「さて、もう日がこんなに眩しくなってきました。ここを片付けて早く身支度をしないと」
「そうね。また一日が始まる……」
コイリュルはかじり掛けた果物を地面に転がす。途端に鳥たちが集まってきて、美味しそうにそれをついばみ始めた。小さな動物たちのその姿に満足げに微笑んで、コイリュルは斧を持って立ち上がった。パパリャも残りの果物を庭に散らしてコイリュルの後を追った。
※ ここでの鼠は、家畜として飼われているクイのことです。




