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3、 新しい住まい


3、新しい住まい


 街は、以前クッシリュに連れられてやってきたときとはだいぶ様子が違って見えた。無機質な壁の立ちはだかる通りも、今のクイには重大な秘密を隠して安全を守ってくれる頼もしい味方である。

 早朝、人の往来もほとんどないうちに、ワスカルの遣わした数人の警護の男たちとパパリャとともに、物心ついたときから暮らしていた屋敷を後にしたクイは、都のワスカルの用意した館へと移動した。成人の儀のときにワスカルから申し伝えられた段取り通り、黒毛のリャマのかつらを被り日よけ薬をたっぷり塗り込んで、肩掛け布リクリャを頭から被り、さらには目を閉じて盲目の振りをする。

 クイ……コリ・コイリュルが初めて外界に触れる日、彼女の秘密を知る者はひどく敏感になっていた。しかし、コイリュルは時々目を上げてリクリャの陰から以前クッシリュと走り回った街の様子を懐かしく眺めていたのだ。

 石畳を踏みしめるたびにクッシリュを思い出す。少年に引かれて躓きそうになりながら走ったあの日を思い出す。無邪気な思い出の残る街はようやく彼女の安住の地となったが、もう頼もしい友人はそこにはいない。代わりに自分を守ってくれるこの高い壁の中で一生を過ごしていくのだ。


 案内された館にはワスカルが待っていた。皇子直々にコイリュルを迎えると、パパリャ以外の護衛はそこで役目を終えて去っていった。長い廊下の奥の奥に連れられて部屋に入ると、ようやくリクリャを取ることを許された。


「なんて……広い部屋」


 コイリュルは思わずそう呟いて、碧い瞳にその部屋の様相を隅々まで映し出した。


「ここは、お父上、ニナン・クヨチ様のお屋敷のひとつです。実はお父上が貴女のために用意していたお屋敷なのですよ。お父上は、即位される日が来るまで、北の邦チンチャイ・スーユを離れられないでしょう。表向きは、ニナン様の留守を、成人した『私の娘』が引き受けたのだということになっています。しかし貴女のお屋敷なのです。どうぞご自由にお使いください」


「私が、ワスカル様の娘と?」


「貴女が次期皇帝ニナン様のご息女であることが知れると不都合なことが多いため、そういうことにさせていただいたのです。実際には親子というにはかなり無理がありますが、他の者がそれを詮索する方法はありませんし、何よりも貴女をお守りするには、『遠縁の者』ではなく『皇族直系の者』である方が都合がいい。私の娘ならば、下々の者は迂闊に貴女に近づくことはできません。もちろん、『妻』としてしまった方が無理がないのですが、ね」


 『妻』と謂う言葉にコイリュルが一瞬身を強張らせたのを見て、ワスカルは笑った。


「正直な方だ。冗談ですよ。貴女もお嫌でしょうし、何よりも『妃』という立場は逆に多くの場に顔を出さなくてはならなくなってしまう。ですから、本日より貴女はこのワスカルの娘ということで通していただきます。しかし、あくまで建て前です。貴女は紛れもなくニナン・クヨチ様のご息女。そしてこの館の主なのですから」


 ワスカルはそう弁明したが、コイリュルは知らないところで自分の立場が決められていたことに大きな不安を覚えていた。ワスカルが彼女を妻にした方が都合が良いと判断すれば、そうなっていた可能性もあるだろう。便宜上『娘』としただけに過ぎない。

 そして父が次期皇帝であることは、思った以上に娘であるコイリュルの生活を大きく左右するものであったことも衝撃だった。目立つ容姿を隠さなければいけないだけでなく、父の娘であることも公言できないのだ。ワスカルの娘というのは建て前であるが、実際、ワスカルの庇護の許でしか暮らせないということだ。



 ワスカルが部屋を退出して、パパリャがようやく口を開いた。


「クイ……。あのワスカルという皇子、あたしには何か引っかかる。本当にクイのことを第一に考えているのか知れたものじゃない」


「どうして? あの方は私の秘密を守りながら、それ以外には自由を与えてくださるとおっしゃったわ。優しい方よ。何よりもお父様の弟なんですもの。私にはたった一人の頼れる身内……」


 本当はパパリャと同じようにコイリュルも不安を抱いたのだが、それを認めてしまうのが怖くてコイリュルは必死に否定した。しかしパパリャはそれを聞いて、あまりにも楽観的なコイリュルに逆に不安を覚えたようだ。。


「突然現れた『身内』と、長くあんたを見て来た他人のあたしと、どっちを信じるのさ」


「まあ、なんて悲しいことを言うの。パパリャと比べられるはずはないでしょう。ワスカル様も私を守ってくださる大事な方よ。でも私にはパパリャがいなくては生きていけないわ。こんな風に私のことをいちばんに考えてくれるのは貴女だけですもの」


「そこまで言われると照れるけどね。でも、あたしはどんなことがあってもクイの味方に変わりないよ。例えこの都を追われたとしても、必ず一緒に付いていくから」


「都を追われる?」


「……例えば、という話さ。クイの『身内』が誰もいなくなっても、あたしだけは味方だって言いたかったんだよ」


 コイリュルは黙ってパパリャに近づき、自分よりもずっと逞しい少女の身体を抱きしめた。


「パパリャはお母さんママみたい。きっと私を生んですぐに亡くなったというお母さんママの生まれ変わりなんだわ」


「そりゃおかしいよ、クイ。あたしが生まれたとき、クイのお母さんはまだこの世にいたんだろう。それから、前にも言ったけど、あたしはそんなに年じゃないよ。あんたと大して変わらないじゃないか」


「そうよね。でもいいの。そう思いたいの」


 しがみつくコイリュルの身体を抱き留めて「ま、いいか」とパパリャは苦笑いしながら呟いた。






***** ***** ***** ***** *****





「……そういうことでさ。何でも、こんなものじゃ収まらない金銀財宝をたんまり溜め込んだ『大国』があるってハナシだ。ワシらが戦ってきた野蛮人なんかより、遥かに物分かりのいい奴らがいて、ワシらが国王陛下を敬愛するのと同じくらい奴らが崇める『王』が治めているそうでさ。ビル―の野蛮人どもなんて、。それこそわがエスパーニャと並ぶ大国かもしれんてハナシさ。その分、手ごわい相手となるかもしれんが、ワシらはあらゆる戦いをかいくぐってきた騎士の一団だ。真向から戦いを挑んでも負けることなんて、ありゃあせん」


 薄汚い顔から酷い臭いを振り撒きながら、男は夢中で語った。彼の振り撒く悪臭など気にならないほど、その話の内容は涎がこぼれるほどにかぐわしい匂いを漂わせていた。いつしか男の体臭も香ばしく焼けた肉の匂いに思えるほどに。


「旦那、そりゃあパナマここも、最高の住まいだろうさ。景色はいいし、食べ物もたんまりある。旦那もここから南に下って散々な目に遭ったから、これ以上厄介事は御免だと思うかもしれんけどな。厄介事のさらに厄介事のその先には、こんな場所なんてメじゃないパラダイスが手に入るかもしれないんですぜ」


 確かに、この地の北方にあった黄金の帝国を、勇敢な彼らの同胞が手に入れたとの報せ(※)が、ついこの間、飛び込んできたばかりである。多くの同胞を失い修羅場を潜り抜けた先の快挙であった。散々無頼者とそしられた同胞は一転、祖国に莫大な富をもたらした『英雄』に成り上がったのである。熱帯のパラダイスで安穏と余生を送りここに骨を埋めるか、はたまた宝の山を目指して更なる苛酷な戦いに挑むのか。

 思えば生まれてこの方、安穏とした暮らしなど一度も経験したことはない。今更そんなものを求めてどうなるというのだろう。富と権力を手に入れた夢を見ながら最後の最後まで戦い抜いて死んでいくほうが、よほど性に合っている。

 悪臭男の話を熱心に聞いていた細面の男の大きな瞳が輝きを放った。



 コイリュルたちの暮らす都よりも、いやコイリュルが夢見る北の邦チンチャイ・スーユよりもさらに北。太陽の通う道さえも越えた熱帯の地で、一人の男の野心が燃え上がっていた。のちに、コイリュルとその周りの多くの人々の記憶に、嫌というほどその存在を刻み付けることになるであろう、その男。

 

 名を、フランシスコ・ピサロと云った。




(※ 1521年 コルテスによるアステカ征服)





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