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2、 金の星 (6)


 伯母はその先の言葉を続ける前に、固く目を閉じ、深く息を吸い込んだ。それを長く吐き出しながら天井を見上げ、溢れてくる想いをその胸の中へ押し込めようとするように、再び大きく息を吸い込んだ。クイはそんな伯母の姿に、今まで誰からも見限られてきたと思ってきた、特にこの伯母にとっては厄介者でしかないのだと感じていた自分という存在が、何かひどく重々しく、常に彼女の気を削がねばならないものであったのかもしれないと気付いた。

 胸に溜めた息を、またゆっくりと最後まで吐き切って、老女は言葉を継いだ。


「貴女の父、ニナン・クヨチは、私の大切な妹の忘れ形見。早世した妹に代わり、私が育てたようなものなのです。皇帝サパ・インカはその後、ここにいるワスカルの母を正妃としたのですが、ワスカルの母も私の妹。つまり、ニナンとワスカルは、どちらも私の息子のようなものなのです。だから貴女にとって、このワスカルも父と同様、信頼を置いていい人物なのですよ。私亡きあとは、このワスカルに貴女の後見を頼みました。もちろん、本当の父が居るのですから、その必要はないはずなのですが、実はもう、貴女をニナンの許に返すことは出来なくなってしまったのです」


 クイはその衝撃的な言葉に、碧い目を大きく見開いて唇を震わせた。


「……お父様の許に……帰れない?」


 上座に座っていた伯母は、そのクイの姿を見ると、弱々しく立ち上がった。足を引きずるようにしてクイの前にやってくると、その前でゆっくりと片方ずつ膝をつき、クイの両肩に骨ばった手を伸ばした。


「ああ、貴女にとって、それがどんなに辛いことか、察しますよ。だからこそ、しっかりと聞いてほしいのです」


 膝立ちになっていた伯母は、片腕をついて体重を支えながら、その場に腰を下ろしていった。足が痛むのか苦痛に顔を歪めながら、ようやく片膝を立てた姿勢で座った。早朝、クイを追い立てるように金切り声を上げることは、もう出来ないだろう。憐れむような眼を向けてクイの頬を撫でる老女に、これまで辛い仕打ちを与えてきた意地悪な女主人の姿を重ねることは出来なかった。


白い子ユラック・ワワ生き神ワカ

 貴女は人間ハトゥン・ルナではありません。いえ、人として育ててはいけなかった。神、ビラコチャが、間違えて人の世に堕としてしまった子ども。それをニナンとユユが授かったのです。本当なら生まれ落ちた時点で、神殿に預けて人の穢れから隔離するか、あるいは天にお返ししなくてはならなかった。

 しかし、貴女の父はどうしてもそれを受け入れられなかった。さらに、最愛の妃ユユが、貴女を生んですぐに亡くなってしまったために、なおそなたを離し難くなってしまったのです。

 もしや、真の姿を隠して人として躾ていけば、いつか人になってくれるのでは。ニナンは万にひとつの望みに賭けたのです。愚かな願いでした。けれど、それほど貴女を愛していたのです。それで、世間の目から遠ざけながらも、人が行う最低限の生活を自分の力で出来るように躾てほしいと、貴女を私に託したのです。結局、貴女が『人間ハトゥン・ルナ』になることはなかった。成人を迎えても、その姿が変わることはなく、いえ、さらに人離れした美しさを放つようになった。

 神の子の存在を隠して、人の生活を強いてきたことなど、とんでもない背徳。貴女の父も私も、大変な罪を犯してしまったのです。しかし、今更貴女を神にお返しすれば、そのお怒りは、私たちだけに収まらないでしょう。神は、この世の者をすべて消し去るまでお赦しにはならないでしょう。

 私はもう長くはない。そして、ニナンはやがて国を背負って立つことになる。貴女をニナンの許に返せば、神はこの国を滅ぼしてしまわれる。どうか、この国の全ての民のために、今後もその姿を隠し通して生きていただきたいのです」


 話すうちに深く深く刻まれていく老女の顔の皺に、クイは気を取られていた。内容は理解できたが、実際それがどれほど自分に影響してきたものなのか、今後自分の生きる道をどれほど左右するものなのかは、想像ができなかった。目の前でクイの服の裾を握りしめ、身体を屈めて叫ぶように泣き始めた伯母の姿を見ても、自分とは関わりない出来事を傍観しているようにしか感じられなかった。老女は、自分の言葉で封印を解いてしまったかのように、ますます取り乱して泣き叫ぶ。クイはそれにどう応じていいのか、まったく見当も付かなかった。

 

「憎んでこうなってしまったわけではない。深く相手を想えばこそ。人は愚かで浅はかなものです。姫君は、そんな人の世をただすために遣わされたのでしょう」


 しばらく後、横で低く落ち着いた声が響き、伯母はようやく顔を上げた。クイもそちらを振り返る。穏やかな笑顔を二人に向けて、ワスカルが深く頷いた。


「わたくしは、何と素晴らしい役目を与えていただいたのだろうと、喜んでおります。こんなに美しく気高い神の御遣いをわたくしに託してくださるとは。姫君はもう、立派に独り立ちされました。姫君がこの人の世で楽しく心穏やかに生を全うされれば、神も納得してくださることでしょう。もちろん、その容姿が原因で姫君に危害が及ぶことは避けなければなりませんが、それ以外の不自由はおかけいたしません。わたくしにどうぞお任せくださいませ」


「ワスカル皇子……」


 ワスカルの言葉に救いを得て、伯母は彼の方に深く身体を折り曲げた。これまで何をどう理解して良いのか分からなかったクイも、ようやく落ち着いて自分の立場を悟ることができた。


「伯母さま……。私は自分が神の子だなど、信じられません。生まれてすぐに天へ還されていたら、私はこの大地の美しさも、人や動物たちとの触れ合いも知らずにいたでしょう。これまでの間、辛いこともあったけれど、それ以上に嬉しいこと、楽しいこともたくさんありました。お父様と伯母さまが私を人の世界に留めてくださったお蔭です。それに、お父様と伯母さまが、どれほど私のことを愛して、心配してくださっていたのか、今日、知ることができました。それだけで私はほっとしました。もちろん、伯母さまの厳しさが辛いと思ったことは嘘ではありません。でもその厳しさが、私にひとりで生き抜く力を与えてくれたのです。

 そして新たに、ワスカル様という良き理解者に引き合わせていただきました。これ以上、恵まれた娘はほかにはおりません」


「クイ……」


 伯母は骨だらけの細い腕をクイの身体に回し、きつく抱き締めた。クイには痛いくらいだったが、その痛みに、あれだけ気丈だった伯母の命が残り少ないことを知った。そして、クイが新たな生活へと旅立たなくてはいけない時期が近づいていることも。


「姫君……」


 ワスカルはゆっくりと立ち上がり、抱き合う二人の横に立った。伯母がクイに回していた腕をほどいて、ワスカルに場を譲る。ワスカルは先ほどのようにクイの前に跪くと、胸に片腕を当てて深々と頭を下げた。


「次期皇帝、ニナン・クヨチ様の第一皇女。さらに神の血筋を受け継がれし尊いお方。畏れながら、不肖ワスカルより、貴女様にお父上より授かった正式なお名前をお届いたしたいと思います。

 貴女様は本日より、コリ・コイリュル様と名乗られますよう……」


金の星コリ・コイリュル……」


「クイ……、いえ、コリ・コイリュル様。その名にあやかって、貴女の未来が輝けるものとなることを祈っていますよ」


 ワスカルの横で、伯母も深々と頭を下げた。


「……新たな名をいただいて、大人になった私は、この館を出て、都に行くのですね」


 クイの唐突な質問に、ワスカルは驚くような顔を見せたが、すぐににこやかな顔で返事を返した。


「はい。貴女様をお迎えする準備は何時でも整っております」


「それならばひとつだけ、私の願いを聞いていただきたいのですが」


「何でございましょう」


「今、外に控えている侍女を、私の傍付きとして都に連れていきたいのです」


「それは……」


 何故か、ワスカルはその表情に難色を滲ませる。顔を上げた伯母も同じような表情になり、お互いを見つめ合った。その二人の様子から、クイがこの屋敷を出ていったあと、パパリャが口封じをされる危険が高かったことが分かる。クイは決してこの意思だけは譲ってはいけないと決意した。

 ワスカルがクイに向き直って言った。


「コリ・コイリュル様。あの者よりも有能な侍女は都にたくさんおります。貴女様にふさわしい傍付きを、こちらでご用意いたします」


「いいえ、どんなに有能な侍女よりも、私はパパリャがいいのです。私をずっと励まし支えてくれた人だからです。パパリャが一緒でなければ私は都に行きたくありません」


「ま……」


 伯母が何か諭そうと口を開きかけるが、もはやクイが自分の保護下ではないことを悟ってそれを飲み込んだ。ワスカルはそんな伯母の方に再び顔を向け、やがてゆっくりと首を横に振った。そしてクイの方へと視線を移し、大きく頷いた。


「分かりました、コリ・コイリュル様。仰せのままにいたしましょう。あの者は貴女様の真の姿を知る者でもあります。秘密を守るためにも、貴女様のお傍に置いておく方がいいでしょう。

 では、都でお待ちしております」


 ワスカルはそう告げると最敬礼をした。クイは生まれて初めて自分の意思を押し通したことに、少し震えながらも心地よい満足感を得ていた。


 クイが新たな名を得たことで、儀式は終了した。しかしそれは単なる儀式には留まらない。クイにとっても、そしてそのときには他の誰も知るよしは無かったが、この国にとっても大きな節目となったのだ。


 この日、クイ……コリ・コイリュルの人生が、大きな時代のうねりの中へと投げ出されたのだった。

 

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