2、 金の星 (4)
パパリャがクイの身体を拭き終えたとき、侍女が戻ってきた。侍女が手にしているのはクイがこの三日間目にすることのなかった物だ。それを見てクイは心の中で溜め息を吐く。
それは、クイが石の部屋に閉じ込められるまでほとんど毎日身につけていたあの黒毛のかつらだった。しかしこれまでクイが使っていた縮れて埃を被ったものとは違い、まだ新しく艶やかだ。沐浴場の隅に畳まれている色鮮やかな衣服同様、クイが成人を迎えるに当たり新調してくれたのだろう。
しかしそれは、今後もクイが本来の容姿を隠して生きていかなければならないということの証である。
侍女とパパリャの手によって、クイの華奢な体に美しい模様をあしらった衣装が着付けられ、色鮮やかな帯が巻かれる。まだ金の髪を隠していないクイの姿は、人とは思えないほど神秘的な美しさを放っていた。パパリャはその姿を多くの人に知ってもらいたいと思ったが、侍女は素早くクイの金糸の髪を纏め上げて黒いかつらの中に仕舞い込んでしまった。それでも、以前より滑らかで光沢のある黒毛のかつらを被ったクイは、これまで屋敷の隅に縮こまっていた地味な少女とは思えないほど、美しかった。
身支度を整え終わったクイは、その姿を念入りに隠すように頭の上から大きな薄手の布を被せられた。そして両脇をふたりに守られるようにして沐浴場を後にした。
屋敷の廊下を歩いていくと、すれ違う召し使いたちが立ち止まりクイのほうへと頭を下げる。屋敷の主人が育ててきた令嬢が成人を迎えたことは、ここで働く者たちはすでに知っているらしい。それがこれまで屋敷の壁を磨いていた小さな少女であることを知っているかどうかは分からないが。
侍女とパパリャに抱えられてクイが辿り着いたのは、客人を迎えるための立派な部屋の前だった。侍女はそこでパパリャに言った。
「さあ、私たちのお役目はここで終わりです。パパリャ、行きますよ」
侍女に促されてその場を去ろうとするパパリャの腕を、クイはぱっと掴んだ。
「待って。行かないで頂戴」
「お嬢様、ここから先は下々の私たちが入ることは赦されません。心細いでしょうが、中で奥様がお待ちです。奥様のお言いつけに従ってくださいませ」
「違うのよ。パパリャを連れていっては駄目」
「どうしてです? パパリャのお役目は済んだのですよ」
「いいえ。パパリャには此処に居てもらいます。私は大人の皇族になったのでしょう? ならば自分の召し使いも選んでいいはずだわ。パパリャには私の傍付きになってもらいます。伯母さまにお許しをいただくまでここで待っていてもらいます」
「それならば、お許しをいただいたあとにパパリャを連れていけばよろしいではないですか。パパリャにもいったん休息を与えてやりませんと」
「それはなりません。これは私からの命令です」
クイがそう言い切ったとき、入り口の掛け布の向こうがわから老女の声が響いてきた。
「いったいそこで何をやっているのですか。お客さまがいらっしゃるのですよ。静かになさい」
侍女は困ったように掛け布の向こうの主人に答える。
「申し訳ありません。お嬢様がここで飯炊き娘を待たせるようにとおっしゃるので」
「クイ、何を我儘を言っているのです。未だ大事な儀式があるのですよ」
クイも負けずに掛け布の向こうへ答える。
「伯母さま、私は召し使いにここで控えていてもらいたいのです。まだ身体が思うとおりに動かせないので倒れやしないかと不安なのです」
侍女は先ほどとは違うことをいうクイを睨んだ。掛け布の向こうからは暫しの沈黙のあと、再び老女の声が響いてきた。
「とりあえずは滞りなく儀式を済ませることが先です。貴女の我儘をいちいち聞いているわけにはいきません。身体が心配だというなら、その侍女たちのどちらかに、部屋の中の声が聞こえない場所で待つように申し付けて、さっさと入っていらっしゃい」
それを聞いてクイはパパリャの身体を自分のほうへ引き寄せて侍女を睨み付けた。侍女は呆れた顔でクイを見たが、軽く頭を振ってその場を去っていった。侍女が去ったあとクイはパパリャに耳打ちした。
「少し離れた場所で私が出てくるのを待っていて。誰かがパパリャを連れていこうとしても主人の命令でここから動けないっていうのよ」
パパリャが守ってきた憐れな少女はそこにはいなかった。これまでとは立場が逆転してパパリャは母親の言いつけに従う子どものように神妙な顔で頷いて部屋の前を離れていった。
独りになってクイは客間の掛け布を上げて中へと入っていった。
正面の石の座台に伯母が珍しく背筋を伸ばして座っていた。ここ数年、老いて身体の弱った伯母とは滅多に顔を合わせることはなかった。断食の前に見た弱々しく寝台に横たわっていた姿がいちばん新しい記憶として残っている。しかしクイの正面に座る人はかつてクイの行動にいちいち目を光らせ粗相は無いかと見張っていたあの厳格な貴婦人その人だった。クイは思わず視線を足許に落とし肩を強張らせた。そして反射的に伯母に何か指摘される前にと自分の成りを確かめようとした。威圧的な伯母の視線に晒されて瞬時に幼い頃厳しく躾けられた記憶が蘇ってきたのだ。
「折角美しい衣を着せてもらったのだから、もっと堂々としたらどうなの?」
小さくなって俯いているクイに伯母は笑いながら声を掛けた。それは意外にも優しく温かみのある声だった。かろうじて姿勢を保っているものの、伯母は年老いてクイを叱る力も無くなっているらしい。いや、もうクイは伯母から何かを指摘されるような年齢ではないのだ。これから正式に『大人』になろうとしているのだから。
安心を得て再び背筋を伸ばし正面を見据える。伯母と目が合った途端、伯母の脇に控えていた人物が声を上げた。
「ほう。なるほど。話には聞いていたが、こうして間近に見ればますます不思議な……」
若い男の声にクイは再び身体を強張らせた。この部屋に入ったときは伯母の視線ばかりが気になって彼の存在にはまるで気が付いていなかったのだ。斜めに差し込んでいる高窓の光が伯母の正面に落ちているので、その奥の人物が陰になっていたことも原因ではあるが。幼い頃から他人……屋敷の中でもかぎられた人としか目を合わせてはいけないといわれて育ってきたので、まるで知らない人物の前に晒されることはクイにとって恐怖にも等しかった。驚き怯えるクイに伯母が説明を加える。
「クイ、この方はお父上の弟君、ワスカル皇子です。いま都にいらっしゃる皇族のなかでは貴女にいちばん近しい身内に当たるのです。本日はお前の成人を祝いにお父上の代理としていらしてくださったのですよ」




