2、 金の星 (3)
「ねえ、パパリャ。あなたが成人を迎えたときも、こんなに辛い儀式を行ったの?」
パパリャの肩にぐったりともたれながら、力無い声でクイが訊いた。
クイは石の部屋に閉じ込められたまま、食べることも飲むことも禁じられていた。
パパリャが食事をとるときは、女主人の侍女が代わりにやってきてクイの世話をした。けれどパパリャもクイに遠慮してそれほど食事が喉を通らず急いで戻ってくるのだった。ただ、少しでも何か口にできるパパリャとクイとでは明らかに衰弱の様子が違っていた。
クイは三日目の朝まではまだ余裕があった。けれどその日の夜になると、さすがに全身の力が抜け、立ち上がるのも容易ではなくなった。
石の寝台に腰掛けて、横に居るパパリャを支えにようやく身体を起こしているような状態だ。顔に掛かった金の髪も、クイが弱っていくと同時に輝きを失っていくようだった。パパリャはクイの背中に腕を回し細く柔らかいその髪を撫でながら答える。
「いいや。あたしは同じ故郷の者たちが暮らす場所に帰されて成人を迎えたけど、こんな厳しいものじゃなかったよ。みんなあたしが大人になったことを喜んでお祝いしてくれた。丈夫な子が産める身体になるんだよと、食べきれないほどのご馳走が出されたよ」
クイは蒼白い顔を上げてパパリャを見つめた。
「同じ故郷……って。パパリャはクスコの生まれではないの?」
「ああ、そうだよ。でもこの街にはほんとうに幼い頃にやってきたから、この街の生まれだといってもいいくらいだけどね。ただ、クイと同じケチュアの民じゃない。あたしの故郷は遠い北の果てなんだ」
「北?」
北と聞いてクイが思い出すのはクッシリュのことである。クイに屋敷の外の世界を教えてくれた友は北の地に憧れ続け、そして実際に旅立っていった。
「識っているわ。北の邦って、とても素晴らしいところなのでしょう?」
「……さあ、どうかな。幼い頃だったからはっきり覚えていないけど、あんまりいい思い出はないな。たくさんの高い木が日の光を遮るからいつも薄暗くて、地面はじとじととしていたな。鳥や動物の鳴き声が絶えず響いていた。暗い森の中から何時凶暴な動物が襲ってくるか分からなくてびくびくしていた。動物じゃない何かも……」
パパリャはそこまで言って言葉を切った。彼女にとって故郷は本当に良い思い出が無いらしい。寧ろ思い出したくない程辛い体験があるようだ。
クイはそれ以上パパリャに故郷について訊くことはできなかった。けれどパパリャの話す『北』はクッシリュの言った理想郷のようなイメージと正反対で、北の邦とは一体どういう場所なのだろうかとクイは気になって仕方なくなった。
やがてパパリャのほうから違う話を切り出した。
「そういえばむかし、街近くの村の出の侍女が話していたな。彼女は成人を迎えるために実家に戻ったけど、三日の間食べることも飲むこともできなかったって。でも彼女は言っていた。家族に励まされながらその三日を終えると、村中の人がやってきて彼女を祝福してくれたって。それに素晴らしい名前をもらったんだと誇らしげに実家から戻ってきた。
クイがあたしとふたりきりでこんな冷たい部屋に閉じ込められなくちゃならないのは、いったいどういう理由なんだろうね。クイは普通の身分じゃないから特に厳しいんじゃないかな。位の高いお姫様はたいへんなんだな。同情するよ」
それを聞いてクイは深く溜め息を吐いた。
「私は皇族なんかに生まれたくなかったわ。そのうえこんな変わった姿で生まれてきたために、本当の姿を隠して生きていかなくてはならないなんて。私が大人になることを喜んでくれる人なんているのかしら」
「あたしは嬉しいよ、クイ。クイが皇族だろうと、少し変わった姿だろうと、親友には違いないさ。お互いに大人になれば、ますます助け合っていけるじゃないか」
「ありがとう……大好きよ、パパリャ。これからもずっと傍にいてね……」
そのまま会話は途切れた。パパリャが肩に一層の重みを感じてクイの顔を覗くと、クイは静かな寝息を立てていた。差し込む月明かりにぼんやりと輝く美しい髪が彼女の顔に幾筋も掛かっている。パパリャはこの世の人とは思えないようなその姿を見ながら呟いた。
「異形は神の祝福の徴(※)って云うじゃないか。ましてやこんなきれいな子がなんで人目をはばかって暮らさなくちゃならないんだろう。あんたは女神にだって成れるはずなのにさ。クイ」
四日目の朝が明けると、女主人の侍女が大きな布を持って部屋にやってきた。まだうとうととしているクイの身体を寝台の上に起こし、パパリャにも手伝わせて、身に纏っている衣服を全て取り去る。抵抗する力も無く、クイはふたりの為すがままになっていた。パパリャが目にしたクイの裸体は、その顔や髪と同じく透き通るような色をしていた。
侍女は大きな布を広げ、クイの頭から足先までを覆うように巻きつけた。早朝、まだ人気のない屋敷の中を、布に包まれたクイがふたりに支えられながらよろよろと進んでいく。向かう先は屋敷の主が使う沐浴場である。
中庭のような空間の真ん中に、山から引いて来た清水が湧き出る石桶がある。もちろん女主人が沐浴するときには周囲に帳が立てられるのだが、クイが連れてこられたときには、その帳が何重にも張り巡らされていた。ほんの僅かでも中の様子を覗かれてはいけないと警戒しているようだ。立てられた帳の間を縫って石桶の前にやってくると、ようやくクイの身体に巻きつけられていた布が取り払われた。
侍女はクイを石桶の前にある石の台に座らせて、桶から流れ出る澄んだ水を足先から少しずつ掛けていく。クイはきんと冷えた水が足先に触れただけで震え上がったが、何度かそれが繰り返されると冷たさにも慣れ、逆に快感さえ感じるようになった。空腹をとっくに通り越して、身体の感覚も麻痺しているのだろう。白い帳の張り巡らされた中で朦朧と宙を向いているクイの白い肌を、侍女とパパリャは冷たい清水で丁寧に洗っていった。
ふと、クイは思った。こんなに厳重に目隠しをされ、最低限の人間にしか本当の姿を晒すことが赦されない自分は、成人を迎えても素顔を隠して生きていかなくてはならないのだろうか。自分の肌や瞳や髪の色が暴かれれば、何か大きな災いを招くのだろうか。
そのときクイの脳裏に、幼い頃に起きたある事件の記憶が蘇った。
まだ幼かったクイは一度だけ伯母の言いつけを破ったことがある。人前で黒毛のかつらを取ってはいけないと厳しく言われていたにも関わらず、同じくらいの年の召し使いの子どもの前でうっかり取ってしまったことがあった。クイ自身もそれほど重大なこととは思っていなかったのだ。召し使いの子どもが『その髪きれいね』と誉めてくれたので、クイは得意になって堂々と本当の姿を晒していた。
伯母がその場を発見し、クイは地下室に閉じ込められてお仕置きを受けた。地下室から出してもらったあと、クイは二度と召し使いの子どもに会うことはできなかったのだ。
それまで虚ろな目で宙を見ていたクイが、はっと険しい表情になった。
「いけないわ。あれを持ってくるのを忘れていた」
クイの身体を洗い終えた侍女はそう呟くと、パパリャに向かって云った。
「大事な物を取りに行ってくるわ。その間にお嬢様のお身体を綺麗に拭いて差し上げてね」
侍女の姿が帳の向こうに消えると、クイは背中の水滴を丁寧に拭き取っているパパリャに神妙な声で呼びかけた。
「パパリャ、もしも私がこの屋敷を出ていくことになったら一緒に付いてきてくれる?」
パパリャは手を止めずに明るく云った。
「当たり前だろ。親友なんだから」
「成人の儀式を終えても、私には自分の生き方を自由に選ぶ権利は与えられないかもしれないわ。でも貴女を連れて行くことだけは譲らないつもりよ。私がどんなに厳しく叱られたとしても貴女は私の言うことに黙って頷いていてほしいの」
パパリャは、珍しく強い口調で訴えるクイを不思議に思ったが、クイと一緒に屋敷を出ることはそれほど難しいことでは無いと感じていたので、気軽に返事をした。
「もちろんさ」
(※)アンデス地域には、奇形や障害を伴って生まれた子を神の生まれ変わりとして信仰する風習がありました。




