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1、 クイ (1)

1、クイ



「クイ! クーイー!」

 伯母の金切り声が、石の壁を奮わせる。四角く切り取られた窓からは、目に染みるような藍とも蒼ともとれる空だけがクイの目に映る。

(ああ、今日も一日が始まる……)

 クイにとっては、そのさわやかな青空さえも疎ましいものに思えるのだった。乾いた季節はクイを憂鬱にさせるだけだ。高原から吹き上がってくる赤い埃を、石壁の細かい目地や、長く迷路のような廊下の隅の隅から取り除いていかなくてはならない。

 クイ(ねずみ)のように、いつも身を屈めて屋敷中を這い回る。その名は確かに私にぴったりだ。クイは自分への皮肉に思わずフンと鼻で笑ってみた。そうやって不満を漏らしそうになる自分を抑えて立ち上がる。


「クーイ!」

 伯母の声が殺気立って近づいてくる。

「はい! ただいま!」

 クイはともかく返事を返し、慌てて敷き布の横に置いてあるかつらに髪の毛を押し込む。黒リャマの毛で作られた波打つような癖のあるかつらは、被ると頭中がチクチクとする。リャマの癖毛を軽く指でしごき、その上を鮮やかな色の頭巾で覆えば、もともと漆黒の髪を持っていたように見える。そしてクイは、ようやくこの国の人になれるのだ。


 クイはここに来たばかりの頃よりもかなり手早く身支度ができるようになったというのに、どんなに記録を更新しても、支度を終えて走り出てきたクイに伯母がかける一言は決まっていた。

「遅い! いつまでたってものろまな子なんだから!」

 クイはくちびるを噛み締めて謝るしかない。

(きっと、伯母さんが起きる前に部屋の前に跪いて待っていたとしても、この人は同じ言葉を口にするんだわ)

 クイには分かっていた。だったらせめて伯母に呼ばれるまで、ぼんやりと空を眺める時間をもらったほうが得というものだ。


 昨日山から強い風が吹いたお蔭で、回廊も中庭も赤く染まって煙っている。クイにとって風は忌々しいものなのか? いや、かえって積もってもいない埃を掻き出す振りをしながら一日をもてあますよりはいい。風のお蔭で仕事に充実感がもてる。

 クイは俄然やる気になって、掻き出し棒と器を持ってきた。こってりと目地に溜まった赤土を丁寧に掻き出して器に落とす。とうもろこし(サラ)の毛の束で、石の表面についた土も優しく落としていく。

 赤い石が黒く艶やかになっていくのを見て、クイは得意な気分になった。

 石がきれいになったところで、この屋敷に喜んでくれる者など誰もいないが、放っておいたら赤い土ぼこりに埋もれてしまうであろうこの屋敷を守っているのは私なんだと、クイは自分で自分を自慢している。クイにはそんな芯の強さがあった。それは堅物の父譲りなのだろうか。それとも顔もよく覚えていない母の血なのだろうか。いずれにしても今自分の周りに無条件で守ってくれる存在がいない彼女には、その持ち前の明るさと芯の強さが大きな味方になっていることに間違いはなかった。


 壁が艶やかに輝くごとに彼女の顔が赤い埃でまだら模様になる。汗で流れた土がまるで血のように彼女の顔に筋を作る。手の甲でぬぐえば目の周りにくまのような痕……。汚れた顔の中で唯一、彼女の澄んだ泉のような眼は不思議な光を放っていた。


 回廊を一周掃除し終えると、太陽は天高く輝いていた。仕事が一区切りすると急に腹が減ってくる。いつも朝から何も食べずに回廊の壁と向き合い、宮殿内の人々が優雅な食事をとったあと、残りものの干芋にありつけるのだった。

 厨房に向かい、飯炊きの召使いに顔を見せる。パパリャという飯炊き娘はクイに歳が近く、この宮殿で唯一クイを人間らしく見てくれるのだった。

「今日もお疲れだね。特に昨日の大風で仕事が大変だったろうに」

「いいえ。私は壁磨きが好きだから」

 朝の憂鬱を達成感に変えたあとのクイの蒼い瞳は、本心から言っていることを証明するように輝いていた。

 パパリャは、クイの耳飾りやケープを留める青銅のピン(トゥープ)に眼をやって、不信そうな顔をする。

「あんたは壁磨きの雑仕女(ぞうしめ)という身分ではないだろうよ。なんだって奥様はあんたにきつい仕事を任せているのかねえ」

「パパリャ、私の生まれは貴族らしいけれど、身内を亡くした今は身分など無い身。伯母さんは私を引き取ってくれて養ってくれる上、こうして母の形見を身につけることを許してくれているわ。それだけで十分よ」

 あまりにも無垢で無知で疑うことすら知らないこの小さな哀れな娘を、パパリャはしばらく見下ろしていたが、フッとため息をついて口の端でせせら笑うような顔を見せた。馬鹿にしているわけではない。クイの純真さに尊敬の念さえ覚える。

 パパリャは、甕に残しておいた干芋とジャガイモのスープの器をクイに押し付けた。

「まあ、それだけの覚悟があるならしっかり働くことさ。まずはしっかり食べろ!」

 パパリャは小さく細いクイの体に合わないようなたくさんの干芋となみなみのスープをいつもくれる。パパリャがクイに送る精一杯の友情の印。クイにはとても食べきれない量だが、素直に喜んで受け取る。

 それを持って回廊の隅に腰を下ろし、飼われている本物のクイたちや小鳥たちと分け合いながら楽しく食事を取る。クイの一番楽しみな時間だった。


 少し日差しが強い日だった。乾季の季節は太陽は一番遠くにあるが、それでも陽の光はまっすぐ浴びればとても熱い。先刻まで陰になっていた回廊にも斜めから眩しい光が差し込んでいた。

 赤い埃の筋から覗くクイの透き通った白い肌が太陽の熱に照らされて、埃の筋よりも赤くなる。クイは頬に火照りを感じ、急いで庇の下に身を引っ込める。陽の光をまともに浴びるといつも寝込んでしまい、不注意だと伯母に責められるのだ。小動物たちも一斉にクイの後を付いてくる。食事を分けてもらわねばと必死のようだ。そんな小さな友だちの様子にクイはくすくすと笑った。



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