5 アハト・リニアン
5 アハト・リニアン
「おかえり」
店の扉を開けると、中に居たカンガルーがそう言ってニーナを出迎えた。
「あ、ただいま、店長。帰ってたんだ」
ニーナは気にした風もなく、そう言いながら中に入る。
茶色い毛皮、強力そうな後ろ脚に太い尻尾。腹に袋が付いているから、雌なのだろう。どこからどう見ても、南方大陸に住むというあのカンガルーである。それがこの店の店主、アハト・リニアンだ。
とはいえ、この店主が本当にカンガルーなのかというと、そうでもない。たまにナマケモノになってぐだぐだと寝ていることもあるが、大抵は、とくに接客時は人間の――それも若い女性の姿をとっている。本人曰くスライムの親戚らしいが、さすがにそれはないだろうとニーナは思っている。性別は女性だと思われるが、たまに男の姿をしている時もあるのでもしかしたらオカマなのかもしれない。
気がついたらふらりと姿を消しているし、とにかく謎の多い人物なのだ。
ニーナとしては、拾ってもらった恩もあるし、店主の奇行にも慣れている。変な人だが、悪い人ではない。
「ごめん、ちょっと用事で外行ってたから、ご飯作ってないんだ」
「ああ、構わないよ。私が作ったから」
「え」
ニーナは顔を引き攣らせた。店長の料理は、何というか、独創的なのだ。とりあえず、材料を尋ねないほうがいいくらいには。
諦念を交えてこっそりため息をつくと、ニーナはタロットを床に下ろし、首輪を外した。その途端タロットの体は膨張を開始し、すぐにいつもの大型犬サイズに戻る。
「何かあったのかな? 顔色が悪い」
顔色が悪いのは店長の料理を恐れているという理由もあるのだが、何もなかったと言うと嘘になる。ニーナは曖昧に頷いた。
「そうか、まあ、話せることなら食べながら聞こう」
アハトはそう言うと、ぴょんぴょんと跳ねながら店の奥に向かった。
『クレフ魔法店』の建物の作りは少々複雑だ。狭い敷地に最大限大きな店舗空間をとるために、火や水を使う厨房だけは一階に設置してあるが、ダイニングは二階に追いやられている。だから、ニーナが昼に食べたような軽食ならともかく、ちゃんとした食事の際には一階から二階に料理を運ばなくてはいけない。
アハトが用意した料理は、何かの肉のソテーと、何かの植物のサラダと、何かのきのこのスープだった。とりあえず、見た目は普通に見えるが、油断してはいけない。
たしかこれはレッドウルフの肉だったはず……と脂身の少ない赤身の肉を見ながらニーナは考える。レッドウルフは紅い毛皮の美しい狼の魔獣で、毛皮には珍重されるが、固くて獣臭いので肉を喰う文化はない。さらに、植物はおそらく紺睡花の葉だし、きのこはアマニタ・アンブラ――どちらも毒性のある魔獣である。紺睡花の毒は花粉と蜜にしか含まれないから葉は大丈夫だし、アマニタ・アンブラは十分に灰汁抜きすれば毒が消えるとは言え、食用にするものではない。
だが、それがアハトの手にかかれば、ちゃんとした料理になるのだ。下手物は下手物に違いないが。
何の説明もされずに初めて食べさせられた時は、食べている途中で材料を聞かされて思わず吐き出しそうになったし、食べ終わってからもいつ毒にやられるかと怯えもしたのだが、特に異常はなかった。とはいえ、日常的に食べたいものではないので、普段はニーナが料理を買って出ている。アハトの方も、たまに気が向いたら料理をやる程度なので、ニーナが食事を作ることに異論はないようだ。
なお、厨房で魔獣の肉を捌くカンガルーは、かなりシュールな光景である。
テーブルの上に料理を並べ終えて、アハトとニーナは向い合って座る。タロットの分は床に置いた皿の中に、肉の付いた大きなレッドウルフの骨である。具体的に言うと、楕円形の肉の塊の両端から骨が突き出ているような形だ。どこの部位なのかは、捌いたアハトにしかわからない。
ニーナは食前に祈る神を持たない。代わりに生命の糧を恵んでくれた自然に感謝を捧げることにしているのだが、糧が魔獣というのはどうなんだろう、と思った。
§
「それで、何があったのかな?」
カチャリ、とフォークを皿の端に置いて、アハトが言った。獣の前足で、器用にフォークとナイフを扱う。
「うーん、ちょっと、失敗しちゃって」
ニーナは苦い口調で答える。そして夕方からの出来事を語った。
「ふぅん、なるほど」
話を聴き終えて、アハトはそう呟く。
「どうすれば良かったのかな」
「そうだね、そもそもニーナはどうしたいんだ? そのデット君と仲良くしたいとか?」
ニーナは顔を顰めて首を振った。
「誰があいつなんかと! ――まあ、ロッテやマルティナちゃんみたいな子がまたひどい目に遭ったりしなければ、とりあえずそれでいいかな」
「なるほどね。だったら、いい方法がある」
アハトはにやりと笑った。
「弱みを握ればいい」
「…………なるほど」
ニーナは頷いた。別に仲良くする必要はないのだ。ネタを集めて、揺さぶりをかければいい。
「でも、どうやって弱みを握るの?」
「人間誰でも一つくらい弱点を抱えているもんだよ。例えば、引き出しの奥にしまわれた手書きの詩集とか」
「な、ななななにを――!?」
ロッテは真っ赤になって慌てる。
「うん? なんのことかな?」
アハトは涼しい顔をして言った。今のはただの例えだったのだろうか、それとも――。アハトの表情からはニーナは判断できなかった。とにかく、
「くっ……。な、なんでもない」
なんでもないということにしておかなければいけない。それにアレには鍵が掛けてある。
「調べるのは尾行が一番だね。浮気調査だってそうだ。決定的な瞬間を押さえるのさ」
「ふむふむ、なるほど」
「明日は私が一日店にいるから、代わりに休みにしていいよ」
「いいの? やった!」
顔を突き合わせて悪い笑顔を浮かべる少女とカンガルーの図を見て、骨ごとぺろりと肉を平らげた白氷竜が、ふん、と鼻息を漏らした。
 




