2 ロッテ・シェーラー
2 ロッテ・シェーラー
今日は客足がまばらで、商品の検品も帳簿整理も終わってしまったので、ニーナはカウンターに座って魔法薬の専門書をめくっていた。
その表情が、えへら、と緩む。
「ねータロー、今日もカッコ良かったねー、テオバルトさん」
話しかけられた白氷竜は、ふん、と鼻で息を吐いた。ニーナはあの男が来た日は、いつもこうなる。タロットにとって大事なのはこの少女であって、あの男は正直どうでもいいのだが。
もっとも、ニーナもタロットに同意を求めているわけではない。単に自分の心情を吐露したいだけだ。
壁に掛けられた時計はそろそろ閉店時間を示している。ニーナは本を閉じると店じまいの準備を始めた。
その時、外から大きな爆発音が聞こえた。
「な、何!?」
慌てて外に出ると、ニーナと同じくらいの年齢の少女と、少女に手を引かれた小さい女の子が駆けてくるのが見えた。大きい方の少女には見覚えがある。ロッテ・シェーラー。ニーナの友人だ。
「ろ、ロッテ!?」
「ご、ごめんニーナちゃん、匿って!」
切羽詰まったロッテの声に、ニーナは事情は分からなかったがとりあえず二人を店に引きずり込んだ。
「は、は、はぁ……。あ、ありがとう、ニーナちゃん」
入り口にへたり込みながらロッテが言った。ロッテの様子を見ると、顔や手足に擦り傷や打撲痕が認められる。女の子の方は、若干服装が乱れていること以外は、目立った外傷はなさそうだ。
「なんだか知らないけどとりあえず奥に行ってて。後で事情聞く」
ニーナがそう言うと、ロッテは頷いて、
「わかった。付いてきて」
女の子の手を引いて店の奥に向かった。その際に、カウンター脇のタロットを見て、女の子が「ひっ」と声を上げた。
ロッテと女の子が奥に消えたのを見届けて、ニーナはため息を落とした。何があったのだろう。
少し早いけど、とりあえず店の外の看板を閉店中にしてしまおう、と、ニーナが扉を開けて外に出ると、さっきロッテが走ってきた方向から少年が三人走ってきた。
「おい! そこのお前!」
少年の一人がニーナを指さして叫ぶ。ニーナはむっとしつつ、
「何よ?」
と返答した。
「こっちに女が二人走って来なかったか?」
「……。それなら向こうに行ったわ」
ニーナはそう言って少年たちの進行方向を指した。それを聞くと少年たちは何も言わずに走って行った。
もう一度ため息をついて、ニーナは看板を閉店中に変え、店の中に戻った。
あの少年たちは、〝平民派〟の不良だったはずだ。ロッテたちを追っていたのは間違いないだろう。
ニーナは入り口の鍵を掛けると、カウンターに戻り、備え付けの医療箱を取り出した。奥の扉を開けると、ロッテと女の子は二階へ続く階段に腰掛けていた。
「行ったよ。まあ、色々訊きたいことはあるけど、まずは治療ね」
ロッテと女の子をカウンター前の客用の椅子に座らせ、ニーナはカウンター裏に座り、医療箱の中から傷薬の缶を取り出す。蓋を開けると、薬草の刺激臭が漂った。
ニーナはロッテの傷の様子を見た。痛々しい痣や擦り傷だ。元々ロッテは金緑色に輝くの髪と白い肌、深緑の瞳の可憐な少女だ。ぱっとしない赤茶色の頭のニーナがこっそり羨ましがるほどに。その可愛い顔を台無しにしている右頬の腫れに、ニーナは怒りを覚えた。
ニーナは指で軟膏状の薬をすくって、ロッテの腫れた頬に塗りつける。
「っ――」
ロッテがびくりと肩を震わせた。薬を塗布した部分が一瞬光って消える。ただの傷薬ではない。原材料に魔宝石を加えて作った魔法薬だ。普通の傷薬が傷口を守り、生物本来の再生能力を促進するだけなのに対して、これは傷を短時間で完治させることができる。
ニーナが薬を塗るたびに、その部分が光って痣や傷が消える。ロッテは歯を食いしばった。目尻に涙が浮かぶ。麻酔を掛けない限り――大怪我でもなければ麻酔は使わないほうがいい――魔法薬を使った治癒にはどうしても鋭い痛みが走る。
「はい、これで全部?」
「う、うん。ありがとう、ニーナちゃん」
ニーナはロッテの隣に座る女の子に目をやった。
「あんたは? 怪我してない?」
「……大丈夫」
女の子は小さな声で答えた。
「そう、良かった。……そう言えば、自己紹介がまだだったね。私はニーナ・エルスター。ここの店員」
「そう言えばそうね。私はロッテ・シェーラーよ。中等学校の一年生」
「マルティナ・ノール、です」
それぞれ自己紹介を終えると、ニーナはロッテに目をやる。
「じゃあ、事情を話してもらっていい?」
ロッテはこくりと頷いて、口を開いた。
§
学校の帰りに、ロッテはニーナに会いにクレフ魔法店に向かっていた。
ロッテの通う中等学校は、キーファの中心近く、役所の隣にある。
ロッテの家は下級貴族だ。この都市に多い新興貴族とは違い、都市の成立時からある古い家系だが、古いだけで特にぱっとしない。家は都市の西にあるので、店に向かう道は反対方向だ。それでもニーナとタロットに会いたいので、三日に一回は店に行っている。
その途中、
「ど、どい、て!」
という甲高い声が聞こえ、ロッテは足を止めた。
声の方向を見ると、狭い路地に複数の人影が見えた。擦り切れた麻のシャツを着た少年が三人、道を塞ぐように立っている。隠れていて良く見えないが、その向こう側に小さい女の子がいるようだ。路地の先は袋小路になっている。つまり、少年たちが子供を閉じ込めている形になる。
こうした嫌がらせのような行為は珍しくない。徒党を組んで女の子一人をいじめるなんて、恥ずかしくならないのかと思うが、そんな連中の気持ちなど知りたくもない。
ああいう行為は嫌いだ。でも、少年三人を相手にして腕力に訴えられたら勝てるわけがない。だからと言って自分より小さな女の子を見捨てるのも気がとがめる。
そんな風にロッテが逡巡している間に、
「どいて! 通し、て」
女の子が無理やり少年の間を抜けようとして、
「きゃあっ」
少年に突き飛ばされた。
その瞬間、ロッテの頭に血が上った。
少年たちに向かって走り、一人の背中に体当たりを仕掛ける。不意を突かれてたたらを踏んだ少年の脇を抜け、女の子と少年たちの間に割り込んだ。
「や、やややめてくださいっ」
そこまでやってから我に返り、震える声でロッテは言った。
一瞬呆気にとられた少年たちだったが、次の瞬間には、
「何だお前!」
「んの女、よくも!」
と声を荒げた。ロッテは怯えて一歩下がる。勢い任せの行動だったのだ。この後どうするかは考えてない。
(……どうしよう、どうしよう、どうしよう!)
初めはやや警戒していた少年たちも、ロッテの挙動を見て与し易いと判断したのだろう、表情を歪めた。
「へっ、よく見たらその格好、貴族の学生様みたいだな? いいご身分だ」
「ここが〝平民派〟の縄張りだと、知らない訳じゃねえよな?」
キーファは、迷宮の入り口を中心にして発展してきた都市だ。おおまかに分けて、東は平民の住む街で、西は貴族の住む街になっている。貴族と言っても、迷宮がらみの利権で成り上がった商人や元迷宮狩人が大半を占めているため、新興貴族と呼ばれることが多い。
新興貴族と平民は基本的に仲が悪い。市内には明確な貧富の差があって、東の外れにはスラム街ができるほどなのに対し、新興貴族は成金趣味の者が多い。それは子供たちにも影響していて、貴族派と平民派の子供はそれぞれ徒党を組んで睨み合っている。
もちろん中には例外も存在する。派閥で言うならニーナも平民派ということになるし、ロッテは貴族派だが、それでも二人は友人だ。
だが、そんな話は目の前の少年たちには通用しない。日々喧嘩に明け暮れて暴力に溺れているような輩に、まともに話が通るとは思わないほうがいい。
「ああ痛てぇ。これは折れてるかもなぁ」
ロッテが先ほど体当りした少年が、わざとらしく背中をさすって言った。
「ぎゃはは、それで折れてるのかよ! お前骨弱すぎだろ!」
「あー、これは治療費貰わないといけないかもなぁ」
当然骨は折れてなどいないだろう。たたの言いがかりだ。結局、お金さえ払えば見逃してやると言っている訳で、恐喝と変わりない。
この都市において、貴族の身分は必ずしも身を守ってくれるとは限らない。特に東に行けば行くほど。平民の方が数が多い上に、迷宮狩人が多くを占めるためだ。大事に発展しない限りは――つまり恐喝や軽い傷害事件程度では――都市の司法はなかなか動かない。
「どう見たって、折れてなんか、いない。……そもそも。悪いのは、あなたたちだし」
そう声を発したのはロッテではない。少年たちに絡まれていた女の子だ。立ち上がって、土埃をはたきながら少年たちを睨んでいる。
白金色の髪と青い瞳を持った、人形のような顔をした女の子である。服装を見る限り、それなりに高価なもののようだ。ロッテは顔を知らなかったが、おそらく女の子も貴族なのだろう。
「どうせ、私が子供だと思って、弱そうだから、絡んできたんでしょ? 恥を知りなさいよ。――平民のくせに」
ロッテは頭を抱えたくなった。言いたい気持ちは分かるが、今は喧嘩を売るべきではない。特に最後の一言は完全に余計だ。
「うるせえ! まだ痛い目に会いたいようだな!」
案の定、逆上した骨折しているはずの少年が、女の子に殴りかかった。女の子は逃げようとして、足をもつれさせた。ロッテは咄嗟に少年の進行方向に立ちふさがる。
少年の振るった拳が、ロッテの右頬を捉えた。頭を揺さぶられて、ロッテは地面に倒れる。
地面に這いつくばった姿勢で、ロッテは顔を上げて少年たちを睨んだ。
「な、生意気な目を向けるんじゃねえ! やっちまえ!」
拳を振るった少年が吠えた。今更後には引けないと開き直ったのかもしれない。その声に打たれて、残り二人の少年も動き出す。
次の一撃は、肩に当たった。ロッテは石畳の上を転がる。脚や腕に擦り傷ができた。
「だ、大丈、夫!?」
女の子が駆け寄って来た。その背後から少年が殴りかかる。ロッテは反射的に女の子の腕を引き寄せて抱きかかえ、地面を転がった。
「きゃっ!」
女の子が悲鳴を上げる。少年の拳は空を切ったが、追撃の蹴りはロッテの左足に当たった。
このままでは勝ち目はない。何とかして逃げ出さなければ。
こうなったら、と、ロッテはポケットに手を入れる。指先に当たった硬い感触の物体を引っぱりだした。軽く握った手の中に収まる程度の大きさの、黒い筒だ。
「いい? 私がこれを投げたら、目つぶって耳塞いで」
腕の中の女の子に小声でそう話しかけると、ロッテは筒の先端に生えたピンを抜いて、それを投げた。カラン、と音がして、少年たちの意識が一瞬そちらに逸れる。ロッテは全力で目をつぶって、耳を押さえる。女の子が慌ててそれを真似した。
三秒後。
激しい破裂音が響き、閃光で周囲が真っ白に染まった。
「逃げるよ!」
いくら耳を押さえていても轟音の影響は受けるので、聞こえたかどうかは分からないが、ロッテは女の子の手を引いて全速力でそこから走りだした。




